社号 | 荒田神社 |
読み | あらた |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 和歌山県岩出市森 |
旧国郡 | 紀伊国那賀郡森村 |
御祭神 | 高魂命、剣根命、天疎向津姫命、神功皇后、応神天皇、他十九柱 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月5日 |
荒田神社の概要
和歌山県岩出市森に鎮座する式内社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、江戸時代後期の地誌『紀伊続風土記』は当社は和泉国大鳥郡の式内社「陶荒田神社」(大阪府堺市中区上之に鎮座)と同じ神を祀ってきたとしています。
「陶荒田神社」は当社と同様に『延喜式』神名帳に二座とあり、同社を奉斎したとされる荒田氏の祖「高魂命」「劔根命」を祀っています。そしてこの二柱は当社でも祀られています。
これが正しいとするならば、当地で「陶荒田神社」を奉斎した「荒田氏」が当地にも居住し祖を祀ったのが当社だったことが推測されます。
「荒田氏」は神別氏族である葛城国造系の「葛木氏」と同系(皇別氏族の葛城氏とは別)で、大和の葛城地方と関係の深い氏族です。
とすれば、紀ノ川を介して葛城地域と和歌山平野を連絡する拠点として「荒田氏」が当地に拠点を置いたことも考えられるかもしれません。
一方、『紀伊続風土記』は当地の地名が「弘田」(荘園の名であり広域地名)である故に摂津国武庫郡の「廣田神社」(兵庫県西宮市大社町に鎮座)と同じく「天疎向津姫尊」を祀り「神功皇后」「譽田別天皇(応神天皇)」を配祀する説を紹介しています。
同記はこの説を「牽強付会」として否定しているものの、現在の当社はこの三柱も御祭神に加えています。
当社はかつて弘田庄、山崎庄、岡田庄を含む広大な地域の産土神だったといい、社領も十町八反二畝(約10ha)にも及んだと伝えられていますが、天正十三年(1585年)の豊臣秀吉による根来攻めによって社殿や文書、宝物等が悉く焼失したと言われています。
その後、寛永元年(1624年)頃に再興し、往時の1/10の規模に縮小して現在に至っています。
現在の本殿はこの頃のもので、華麗な彫刻がよく残る江戸時代初期の貴重な建築として和歌山県指定文化財となっています。
境内の様子
境内入口。集落内に鬱蒼とした社叢の境内があり、鳥居が南向きに建っています。
鳥居から社殿まではまっすぐコンクリートで舗装された参道が敷かれています。
参道途中の左側(西側)に手水舎があります。手水鉢は寛保元年(1741年)に奉納されたもの。
参道の正面奥に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺の平入切妻造の割拝殿。通路の右側(東側)の部屋は壁で閉ざされているのに対し、左側(西側)の部屋は土間となっており立入可能な構造です。
割拝殿の通路を抜けた先に銅板葺の平入切妻造の中門(拝所)があります。その左右は塀が設けられており、本殿の建つ空間とを完全に仕切っています。
中門の後方に建つ本殿は檜皮葺の朱塗りの施された三間社流造。当社の再興された寛永元年(1624年)の建立で、根来出身の名工「塀内正信」が制作したものと推測されています。
優美な社殿であり、細かい彫刻も美しく、江戸時代初期の貴重な建築として和歌山県指定文化財となっています。
本社本殿の後方やや右寄り(東側)に岩石があり、注連縄が掛けられています。曰くありげですが詳細不明。
本社本殿の左側(西側)に「八坂神社」が南向きに鎮座。
社殿は銅板葺の非常に小さな一間社春日造。本社と同様に社殿前に中門(拝所)が設けられています。
本社本殿の右側(東側)に「丹生神社」が南向きに鎮座。
社殿は銅板葺の流見世棚造。こちらも同様に社殿前に中門(拝所)が設けられています。
本社拝殿前の左側(西側)に「稲荷神社」が東向きに鎮座。御祭神は「倉稲魂命」「大国主命」。
朱鳥居の奥に銅板葺の妻入切妻造に庇の付いた春日造状の社殿が建っています。
当社境内は往時の1/10にまで縮小したと言われているものの、クスノキの巨樹等も見られます。
現在も文化財指定の立派な社殿がありますが、往時はこれ以上にさぞ壮麗な神社だったことでしょう。
由緒
案内板
荒田神社
案内板
和歌山県指定文化財 荒田神社 本殿
地図
関係する寺社等
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