社号 | 為那都比古神社 |
読み | いなつひこ |
通称 | 萱野の大宮 等 |
旧呼称 | 牛頭天王社 等 |
鎮座地 | 大阪府箕面市石丸2丁目 |
旧国郡 | 摂津国豊島郡石丸村 |
御祭神 | 為那都比古大神、為那都比売大神 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 4月15日 |
為那都比古神社の概要
大阪府箕面市石丸2丁目に鎮座する式内社です。
現在、当社の御祭神は「為那都比古大神」「為那都比売大神」の二柱であり、『延喜式』神名帳に二座とあることからこの二柱が祀られていたと考えられます。
しかし当社は元々は「為那都比古大神」のみが祀られており、当社とは別に現在の白島3丁目にあたる地にかつて「為那都比売大神」を祀る「大宮神社」(大婦天王社)が鎮座していました。
社伝によれば元々は当地に二柱が祀られていましたが、寛平年間(九世紀末)に分かれて「為那都比売大神」が白島の地に祀られ「大宮神社」として鎮座したとされています。
大宮神社は明治四十年(1907年)に神社合祀政策により周辺の神社と共に当社に合祀され今に至っています。
一方で大宮神社の旧地に当社と大宮神社の両方の神宮寺だった「醫王山 持宝院 大宮寺」があることから、大宮神社こそが元々の「為那都比古神社」だったとする説もあります。
為那(ゐな)とは西方を流れる猪名川を中心とする広域の地名と考えられています。『日本書紀』仁徳天皇三十八年七月の条に「猪名県」が見え、大化以前の地方組織である「県(あがた)」があったことが知られています。
そして当社の社名・神名の「イナツヒコ」「イナツヒメ」とは猪名県を支配した豪族ら、もしくはその祖先を神格化したものと思われ、恐らくはこの猪名県を支配した「猪名県主」が当地で祖神を祀ったのが当社の創建と考えられます。
ただ、当地は猪名川から直線距離で6.5kmも離れており、また『倭名類聚抄』には摂津国の豊島郡でなく川辺郡(概ね猪名川の西方)に「為奈郷」が記載されていることから、当地は「ゐな」の中でも辺境の地であったことが想像され、猪名県主が祖神を祀る地としては疑問も持たれています。
『新撰姓氏録』には「ゐな」と関わりがありそうな氏族として次の氏族が登載されています。
- 摂津国皇別「為奈真人」(宣化皇の子、火焔王の後)
- 左京神別「猪名部造」(伊香我色男命の後)
- 摂津国諸蕃「為奈部首」(百済国の人、中津波手の出自)
- 摂津国未定雑姓「為奈部首」(伊香我色乎命の六世孫、金連の後)
1.に関連し、『古事記』に宣化天皇の子の恵波王は「韋那君」の祖とあり、また『日本書紀』宣化天皇元年の条に天皇の子の上殖葉皇子は「偉那公」らの祖とあります。火焔王、恵波王、上殖葉皇子と祖が異なるものの、宣化天皇の子孫がヰナと名乗る氏族となったことがわかります。
そして2.と4.は物部系氏族で、3.は百済系の渡来系氏族となっています。
また『日本書紀』応神天皇三十一年の条に、諸国に造らせて献上させた500艘の船を新羅人の失火により焼失してしまい、その侘びとして新羅王が造船技術を持つ匠を献上し、これが「猪名部」の始祖になったと記載されています。この造船技術を持った人々もこの「ゐな」の地と関係すると思われますが、渡来系とはいえ新羅からの人々なので3.とは異なる人々だった可能性があります。
このように「ゐな」には非常に多岐に亘った氏族が関わっていることがわかります。この中のいずれかの氏族が当社を奉斎したと思われますが、いずれがそうなのかを断ずるのは難しいのが現状です。
とはいえ当社北西の如意谷地区からは銅鐸が出土しており、当地の歴史の古さが窺えます。
なお、当社は江戸時代以前は「牛頭天王」を祀っており、織田信長が畿内の寺社を焼き払った際に信長の信仰した牛頭天王を祀ると偽ったことで焼却を免れたと伝えられています。
摂津国の寺社では広く聞かれる伝承ですが、民衆の間で牛頭天王の持つ厄除けの力が厚く信仰された側面も無視できないものでしょう。
境内の様子
境内の50mほど南方、箕面第四中学校のすぐ北方に灯籠が建っています。『摂津名所図会』に例祭の際に神馬を奉納したとあることからこの道は馬場だったのかもしれません。
道を進んでいくと南向きの鳥居が建っており、ここが境内入口となります。
鳥居の左側(西側)に小さなお堂があり、地蔵菩薩が祀られています。
鳥居をくぐった様子。鳥居の先も石畳の敷かれた参道が50mほど続いています。
参道の先、石段の上に瓦葺・平入入母屋造の建物があります。神門とも割拝殿とも呼べそうな建物。当サイトでは仮に神門としておきます。
神門の前に一対の狛犬が配置されています。花崗岩製。それほど古くはないと思われます。
神門をくぐった様子。広々とした空間となっており、社殿まで一直線に石畳が敷かれています。
神門をくぐったところにも狛犬が配置されています。こちらは砂岩製。
石畳の途中の右側(東側)に手水舎があります。カラスがいたずらをするために使用中止となっています。
正面に社殿が南向きに並んで建っています。拝殿は銅板葺で平入入母屋造に千鳥破風と大きな唐破風の付いたもの。
拝殿前の狛犬が二対配置されています。手前側の一対は花崗岩製でイカツイ顔立ちです。
奥側の狛犬は桃色花崗岩製。比較的穏やかな顔立ちです。いずれも古めかしいものです。
後方の本殿は銅板葺の流造。もしかしたら覆屋かもしれません。
本社社殿の右側(東側)に「天満宮」が鎮座しています。
本社社殿の前に「為那都比古社」と刻まれた石碑が建っています。
これは江戸時代中期の地理学者である並河誠所が、当時所在不明となっていた式内社を研究し、比定された式内社に記念として建てられたもの。
摂津国の式内社ではよく見かけるものです。
石碑の後方には四方に注連縄の張られた区画があります。
何らかの神事が執り行われるのでしょうか。
石碑の右隣(東側)には砲弾が奉納されています。
日露戦争で旅順港を攻撃した際に使用されたものを陸軍省から下賜されたもの。
境内は東側に広い空間があり、その奥に「英霊奉安殿」が西向きに鎮座しています。
境内東側から社殿を眺めた様子。開放的で広々とした境内となっています。
旧村社とはいえ当地では有数の神社として多くの人から信仰を集めているようです。
醫王山大宮寺
当社の西方1kmほど、白島3丁目に「醫王山大宮寺」があります。
この地にはかつて当社の御祭神の一柱「為那都比売大神」を祀っていたという「大宮神社」(大婦天王社)が鎮座していました。
また大宮寺は当社および大宮神社の神宮寺でもありました。
大宮寺は当山派(真言宗の修験道)の祖である聖宝による開基で、薬師如来を本尊としています。
当寺は「かやの薬師」とも呼ばれ、また山号の「醫(医)王」とは薬師如来を指します。
かつては「持宝院」とも称する大寺院だったといい、中世の戦乱により薬師堂のみが残っています。
また大宮寺の北方には「医王岩」と呼ばれる岩石があり、信仰の対象となっています。
医王岩への経路は少しわかりにくく、普請池のすぐ東側の道から森の中へ入りひたすら進んだ奥にあります。
森の中の道をひたすら進むと突き当たりに巨大な岩石が屹立しており、これが件の「医王岩」です。
「薬師岩」とも呼ばれ、大宮寺の伝承ではこの岩石の姿がまさに薬師如来の尊影だったので聖宝が薬師如来の尊像を刻み堂宇に祀ったのが大宮寺の創建としています。
一方で『摂津名所図会』によれば大己貴神・少彦名神の二柱が生まれた地なので医王岩と称するのでは、との旨を記しています。
『摂津名所図会』のニュアンスでは実際に大己貴神・少彦名神の伝承があったか判別しかねるところですが、もし二柱の神が顕現したとする伝承があったのならば、或いは為那都比古大神・為那都比売大神は当初ここに祀られたのかもしれません。
御朱印
由緒
案内板
爲那都比古神社社記
『摂津名所図会』
地図