社号 | 久世神社 |
読み | くせ |
通称 | |
旧呼称 | 若王社 |
鎮座地 | 京都府城陽市久世芝ケ原 |
旧国郡 | 山城国久世郡久世村 |
御祭神 | 日本武尊 |
社格 | 旧郷社 |
例祭 | 10月7日 |
久世神社の概要
京都府城陽市久世芝ケ原に鎮座する神社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
かつては「若王宮」と称していたことから熊野信仰の若王子に関する神社だったのかもしれません。
ただ、現在は「日本武尊」を御祭神としており、この神を祀っている経緯もはっきりしません。
当社本殿は建立年代は不明ながら室町時代中期と推定されており、貴重な建築として国指定重要文化財となっています。
当社境内には奈良時代前期に創建されたと見られる「久世廃寺跡」が、東方350mほどには久世郡衙跡と見られる「正道官衙遺跡」が、そして周辺一帯には京都府下で最大級の古墳群「久津川古墳群」が所在し、当地付近は古墳時代以来の歴史ある一帯となっています。
境内の様子
当社はJR城陽駅の北方350mほどの地に鎮座しています。
JR奈良線の西側にある道に沿って境内入口があり、玉垣で道とを仕切っています。
入口からやや進んだところに一の鳥居が西向きに建っています。
鳥居の奥の石段上にはJR奈良線の踏切があり、いわゆる「参道踏切」となっています。
鳥居をくぐって左側(北側)に境内社が西向きに鎮座。社名・祭神は不明。
長細い朱鳥居が建ち、奥に鉄板葺の流造状の社殿が建っています。
石段を上って踏切を渡ると参道が伸びており、左右には灯籠がズラッと並んでいます。
参道は逆L字形になっており、突き当りを左(北側)へ曲がるとその先は広い空間となっています。
この空間の正面奥に二の鳥居が南向きに建っています。
二の鳥居の奥に石段があり、本殿等の建つ空間は小高い地となっています。
二の鳥居の左側(西側)に手水舎が建っています。
二の鳥居をくぐって石段を上り、その正面奥に社殿が南向きに並んでいます。
当社には拝殿がなく、本瓦葺の妻入り切妻造の中門(拝所)および本殿を囲う瑞垣が設けられています。
これらは朱や極彩色が施されており、本殿にも負けぬ豪華なものとなっています。
中門前の左右に配置されている狛犬。
本殿は檜皮葺の大規模な一間社流造で、こちらも朱や極彩色が施された鮮やかなもの。
建立年代ははっきりしないものの室町時代中期と推定され、貴重な建築として国指定重要文化財となっています。
本社本殿の右側(東側)に二社の境内社が西向きに並んで鎮座しています。
これらの内、左側(北側)に「龍王社」が鎮座。
色褪せた朱鳥居が建ち、奥に銅板葺の一間社流造の社殿が建っています。
龍王社の右側(南側)に「稲荷社」が鎮座。
こちらは鮮やかな朱鳥居が建ち、奥に同様の銅板葺の一間社流造が建っています。
この空間の一画には桜(ソメイヨシノとシダレザクラ)が植えられており、春には華やかに花を咲かせて境内を彩ります。
当社境内の内、本社社殿の西側一帯は奈良時代前期に創建された古代寺院の跡があり、「久世廃寺跡」と呼ばれています。
金堂を西、塔を東に配置する法起寺式伽藍配置(つまり法隆寺式の逆)で、金銅製の誕生釈迦仏が出土しています。
この寺院は早くも十一世紀には廃寺となってしまったようです。当社と関係のある寺院だったのかは何とも言い難い年代です。
当社周辺の様子
当社の東方350mほどの地(寺田正道)に「正道官衙遺跡」と呼ばれる遺跡があり、公園として整備されています。
この遺跡は当初寺院跡と見られていましたが、後の発掘調査で官衙跡であることが判明し、久世郡衙だったものと考えられています。
つまりこの地は律令制下の久世郡における政治の中心だったことになります。
この「正道官衙遺跡」は国の史跡に指定されています。
プレート
史跡正道官衙遺〔昭和四九年(一九七四)九月指定〕
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遺跡の発見
標高四〇~五〇mの南向き台地上にあるこの遺跡は、昭和四〇年(一九六五)、台地西端の池畔で瓦片や土器片が見つかり、古代寺院があったと推定されて「正道廃寺跡」と名付けられました。
しかし、昭和四八年(一九七三)二月からの大規模な発掘調査では、寺院跡とみるより、奈良時代の郡衙(郡の役所)中心部分と推定される建物群跡が確認され、昭和四九年(一九七四)には名称も「正道遺跡」と改められました。その後、付近で部分的な調査を続けた結果、遺跡西側にも建物群跡のあることがわかっています。
国の史跡に
この遺跡は、五世紀の小規模な古墳と六世紀後半から七世紀にかけての集落遺構、そして七世紀以降の整然と配置された大型の掘立柱建物群からなる官衙(奈良時代の役所)遺構などが重なりあう複合遺跡です。
特に官衙遺構は歴史・地理的背景や出土遺物などから、奈良時代の山城国久世郡の郡衙中心部であると推定され、昭和四九年(一九七四)九月、城陽市では最初の国史跡の指定を受け、翌年三月に史跡地全体の薬一〇、八五〇㎡が公有化されました。
史跡の整備
この遺跡は、発掘調査後埋め戻されて長い間広場になっていましたが、遺跡の保存と活用を図りながら、積極的にまちづくりに生かしていこうという機運が高まり、平成元年(一九八九)二月、文化庁の指導を得て、この遺跡を含む市内全五カ所の史跡整備構想を策定。翌年、この官衙遺跡の整備基本計画を作り、平成三年(一九九一)一〇月から整備工事に着工、平成四年(一九九二)一一月に工事が完成しました。
整備の方法
整備にあたっては、官衙建物群のうち、ほぼ同時期のものと推定される建物群を復元の対象とし、時期を異にする建物遺構は、一定の覆土をして地下に現状保存しています。
建物の復元の仕方は、発掘調査の結果に基づいて柱の位置や太さを忠実に表現し、一方、柱の高さや柱組みは近い時代の建築様式を参考にして、これらの建物の規模が想像できる「イメージ」復元となっています。
また、遺跡内の樹木は、在来植物の中から選び、特に奈良時代の「万葉集」の歌に詠まれている、いわゆる「万葉植物」には代表的な万葉歌を添えて紹介しています。
また当社周辺一帯は京都府下で最大級の古墳群である「久津川古墳群」があり、中でも上の写真の「久津川車塚古墳」は椿井大塚山古墳と並び山城地域で最大級の古墳となっています。
久津川車塚古墳は墳丘長180mの前方後円墳で、五世紀前半頃の築造と推定されています。
その他にも「丸塚古墳」「芭蕉塚古墳」をはじめとする100基以上の古墳があり、南山城地域を治めた人々の墓だったと考えられます。
このように大谷川により形成された扇状地である当地一帯は古墳時代においても律令制下においても政治的に重要な地であったことがわかります。
案内板
国指定史跡 久津川車塚古墳
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昭和五四年一月一九日指定
久津川車塚古墳は、墳丘の長さが約一八〇㍍で、周濠を含めた全長は約二七二㍍あります。南山城地域では、最大の前方後円墳です。
久津川車塚古墳は、大谷川により形成された扇状地のほぼ中央に築造されています。大谷川の扇状地には、古くから「七ツ塚」と呼ばれる七基の古墳があり、久津川車塚古墳、梶塚古墳、芭蕉塚古墳、青塚古墳、箱塚古墳、指月塚古墳、丸塚古墳がそれにあたります。
現在は、国指定史跡の久津川車塚古墳と丸塚古墳、城陽市指定文化財の芭蕉塚古墳の他に、青塚古墳の一部が現存しています。
宇治市南部から城陽市北半部にかけての丘陵上や平地には、多くの古墳が築造されており、これらの古墳を総称して久津川古墳群と呼んでいます。久津川古墳群は、広い範囲に古墳時代前期から後期にかけて築造された多くの古墳があり、京都府内最大の古墳群と言えます。
久津川古墳群は、宇治市南部の広野地域、大谷川扇状地を中心とした平川地域、城陽市の中央部にあたる富野地域の三グループに分けることができます。特に、三基の大型前方後円墳(久津川車塚古墳、芭蕉塚古墳、丸塚古墳)が所在する平川地域は、久津川古墳群の中心となっています。
城陽市教育委員会
タマ姫
古墳に役所に古代寺院とこの辺りはとても古くから歴史あるところなんだ!この神社も古いのかな?
残念ながらこの神社には特に由緒は伝わっていないわ。ただ本殿は室町時代中期に建てられた貴重なものよ。
トヨ姫
由緒
案内板
由緒記
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一、鎮座地
京都府城陽市久世芝ヶ原
一、御祭神
日本武尊
一、御祭礼
新年祭 一月三日
春祭り 四月
夏祭り 八月
大祭 十月七日
お火焚祭 十二月
月次祭 三月・六月・九月
一、由緒
旧久世村の産土神で、日本武尊を祭神としている。その創祀年代はあきらかでないが、本殿の建物が室町末期の建築であることからみてそれ以前からの鎮座であることが想像される。
もとは若王社といったが明治維新の時に今の名にあらため、明治七年郷社に列せられた。
明治三十九年重要文化財に指定された。
末社として龍王神社・稲荷神社がある。
特別祭祀として例祭にさきだつ十月五日・六日の両宵に御旅所(久世南垣内)において迎火として大篝火を献ずる。
宗教法人 久世神社
案内板
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国指定史跡趾 久世廃寺跡
久世廃寺は、塔を東、金堂を西に置く法起寺式の伽藍配置をとります。寺域は東西約一二〇m、南北約一三五mと推定されており、寺跡の大半は久世神社の境内地となっています。境内には塔跡・金堂跡・講堂跡が、土壇として残っています。
塔跡は、東西一三・七m、南北一三・四mの瓦積基壇と推定されています。金堂跡は、東西二六・七m、南北二一・三mの瓦積基壇です。講堂跡は、東西二三・五m、南北一三mの瓦積基壇で、基壇上には七間(二一m)×四間(一〇・五m)の四面庇をもつ建物があったことが確認されています。南門跡は、南北四・三m、東西八m以上の基底部が確認されています。
南門跡北側の瓦溜まりからは、像高六・九cm(頭頂~足裏)の金銅造の誕生釈迦仏立像が出土しています。
また東側の市道沿いでは、補修用瓦を焼いたと考えられる瓦窯跡がみつかっています。
hっ靴調査により、奈良時代前期に創建され、八世紀中頃に建物が整備され、一一世紀前半に廃絶したと考えられています。
寺域北東側の丘陵上には、六世紀に築造されたと考えられている芝ヶ原一~七号墳(前方後円墳二基、円墳五基)があります。
重要文化財 久世神社本殿
丹塗りの一間社流造、檜皮葺で、柱上部・組物・庇水引虹梁・庇蟇股などを極彩色に仕上げています。内部は内陣と外陣に分かれ、内陣正面には弊(※原文ママ)軸付板扉、外陣正面に引違の格子戸を四枚たてています。内陣正面の板扉には扉二枚にわたり大きな松を描き、左右の脇羽目板にも草花を描いています。内陣正面の欄間中央に巴紋。左右に六弁の花紋を飾っています。外陣正面には透彫り欄間をいれ、単純化した唐草文様を柱間一間分にわたって彫刻した中に、中央に菊、左右に各二個ずつ計四個の桐を配しています。
建立年代は明らかでありませんが、室町時代中期とされています。
城陽市教育委員会
地図
京都府城陽市久世芝ケ原