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自玉手祭来酒解神社 (京都府乙訓郡大山崎町大山崎天王山)

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社号 自玉手祭来酒解神社
読み たまでよりまつりきたるさかとけ
通称
旧呼称 天神八王子宮、山崎天王社 等
鎮座地 京都府乙訓郡大山崎町大山崎天王山
旧国郡 山城国乙訓郡大山崎村
御祭神 大山祇神
社格 式内社、旧郷社
例祭 5月5日

 

自玉手祭来酒解神社の概要

京都府乙訓郡大山崎町大山崎天王山に鎮座する式内社です。鎮座地は天王山の山頂近くにあります。社名は難読で、「たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ」と読みます。

『延喜式』神名帳には名神大社とあり、古くは非常に有力な神社だったようです。また、元は「山埼社」と称したことも記されています。

当社の創建は不詳ながら、養老元年(717年)に建立されたという棟札があったようです。

元々は大山崎西谷地区に鎮座する「離宮八幡宮」の地に鎮座していたと言われており、中世に離宮八幡宮の勢力が大きくなって当社は山上へ遷座したと伝えられています。その具体的な経緯は不詳ですが、石清水八幡宮の元宮として創建された離宮八幡宮が後に荏胡麻の油の販売権を独占して強大な勢力を築いたことから推して、当初その地の守護神だった当社の地位が奪われ山上へ追いやられたのかもしれません。

当社は中世以降「天神八王子宮」「山崎天王社」と称し、牛頭天王やその御子の八王子を祀る神社として信仰されました。鎮座地の山もかつて「山崎山」と呼ばれていましたが、後に「天王山」と呼ばれるようになりました。本能寺の変の直後、羽柴秀吉が明智光秀を討つべく中国大返しにより当地で繰り広げられた「天王山(山崎)の戦い」はあまりに有名です。

先述の通り当社は専ら牛頭天王・八王子を祀る神社として信仰されていたため、式内社「自玉手祭来酒解神社」の所在は明治年間まで不明とされていました。当社に比定された事情は不明ですが、『延喜式』神名帳に元の名は山埼社だった旨の記述があることから、山崎に鎮座する当社に比定されたようです。

さて、当社の社名「自玉手祭来酒解神社」は不思議な響きです。当社の所在が長らく不明だった以上、社名の意義も不明としか言いようがありません。特に「自玉手祭来」は類例が無く解しがたい部分です。「酒解」は様々な説があるようで、橘氏の神であることを示す説の他、「酒」は「境」に通じるとする説があり、山城国と摂津国との境界である当地においてサイノカミ的に祀られたのかもしれません。

いずれせよ当地は山城国から摂津国へ抜ける交通の要衝であり合戦の舞台ともなった要地で、歴史上の人々からも注視された地でした。当社には鎌倉時代に建立されたという国指定重要文化財の板倉造の神輿庫が残っており、また神輿も室町時代以前のものと考えられ、当社への信仰の厚さを垣間見ることができます。

 

境内の様子

当社は天王山の山頂近くにあるため、参拝はちょっとした登山になります。入口はいくつかありますが、南側から登っていきましょう。

竹藪の中の登山道を上っていくと当社の一の鳥居が建っています。

 

さらに上っていくと辺りは広葉樹の森となり、途中には二の鳥居が建っています。

 

二の鳥居付近からはこのように京都盆地を一望できます。この眺望はかつて当地で繰り広げられた合戦でも大いに役に立ったことでしょう。

 

さらに上っていくと「嚴嶋社」の石祠が鎮座しています。御祭神は「市株嶋姫命」。

 

さらに上には「三社宮」が鎮座しており、三棟の祠は一つの覆屋に納められています。

三社宮は左から「蛭子神」、「月讀大神」、「天照大神」がそれぞれの祠に祀られています。

 

三社宮を過ぎるといよいよ本社の社殿が見えてきます。社殿は東向きで、その配置はかなり変わったものとなっています。

 

参道を進んでいくと左側に拝殿が建てられています。舞殿風拝殿のようですが、屋根は妻入の切妻造となっており、この屋根が参道にまで延長されています。

 

延長された屋根は参道の向かい側にある建物に接続しています。この建物は妻入の切妻造で中は休憩所となっており、桁や梁に自然のままの荒々しい木材が使われているのが特徴です。本来はこの建物も拝殿としての機能を持っていたのかもしれません。

 

拝殿の後方には本殿が建っています。五間社流造でかなり大型の立派な本殿です。文政三年(1820年)に建立されたもので、国の登録有形文化財に指定されています。山の上にこれほど大規模な建築を建てるのはなかなか大変だったことだろうと偲ばれるところです。

 

手水舎は社殿の手前側(南側)、参道の右側(東側)にあります。

なお、手水舎の傍らに建つ円柱形の柱は三の鳥居の跡だそうです。

 

本殿の手前側(南側)には「宮主社」が鎮座しています。御祭神は「足名稚命」「手名稚命」。覆屋の中に流造の祠が納められています。

 

社殿の奥側(北側)には「後見社」が鎮座しています。御祭神は「大己貴命」。こちらも同様に覆屋の中に流造の祠が納められています。

 

境内の南西側のやや小高い石垣の上には神輿庫があります。これは鎌倉時代に建立された板倉形式の貴重な建築で、国指定重要文化財となっています。よく知られた三角柱の木材を積み上げる校倉形式に対して板倉形式は厚板を積み上げたもの。この遺構は少なく、現存する板倉形式の建築はこの物件が全国最古です。

 

当社を訪れたのは丁度紅葉の季節だったので楓の葉が綺麗に色付いていました。

 

社殿からさらに奥側へと道を進んでいくと天王山の山頂があります。山頂には最高地点であることを示すためなのか石が積まれています。しかしここからの眺望は良くありません。

天王山から先も道は続いており、円明寺地区の「小倉神社」へ下りる道も整備されています。

 

タマヨリ姫
天王山って聞いたことある!その由来となったのがこの神社なんだ!
そうね。元は山崎山と呼ばれていたけど、当社で牛頭天王を祀ってたから山の名前も天王山となったみたいね。ここは全国有数の交通の要衝で、知っての通り歴史上の有名な合戦の舞台にもなったのよ。
トヨタマ姫

 

由緒

案内板「酒解神社(自玉手祭来酒解神社)」

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酒解神社(自玉手祭来酒解神社)

祭神

酒解神・素戔嗚命他九柱

祭礼

5月5日

文化財(重文)

板倉造神輿庫

その創建は奈良時代にまで溯るといわれ、平安時代の延喜式神名帳にも月次、新嘗の官祭を受ける名神大社であることが記されている。神名帳によると旧名を山崎社と称し、元正天皇の養老元年(717年)建立の棟札があったという。

中世には山下の離宮八幡宮の勢力が強大となり、同社は山崎山(天王山)上に遷座し、山上の神はやがて天王社と呼ばれるようになり、山も天王山と呼ばれるようになっていった。さて、今日同社には非常に珍しい重文の神輿庫が残されている。一般によく用いられる▷形の木を積み上げた校倉形式ではなく、厚さ約14cmの厚板を積み上げた板倉形式で建立されている。この校倉形式の遺構は非常に少なく、重文に指定されているものでは、奈良市内の春日大社にあるものが唯一であるが、それは江戸時代のもので新らしく、現存する板倉としては当庫が最も古く非常に貴重な建造物である。

昭和六十一年三月

大山崎町教育委員会

『都名所図会』

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大山崎天王の社は素盞嗚の御子八王子を鎮座したまふ。一の鳥居の額は小野道風の筆なり。山崎郷中の産砂とす。例祭は四月八日にして神輿三基□。当社勧請の年代詳ならず。神殿梁の銘に曰 養老二年に再興と書す。今本坊にあり。天王山の城は文明二年山名是豊赤松一族上洛してこの城を築く。

 

地図

京都府乙訓郡大山崎町大山崎天王山

 


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