社号 | 天穂日命神社 |
読み | あめのほひのみこと |
通称 | |
旧呼称 | 田中社、須麻神社、石田社 等 |
鎮座地 | 京都府京都市伏見区石田森西 |
旧国郡 | 山城国宇治郡石田村 |
御祭神 | 天穂日命/相殿:天照大神、大山咋命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 11月3日 |
天穂日命神社の概要
京都府京都市伏見区石田森西に鎮座する式内社です。
江戸時代以前は「田中社」「須麻神社」「石田社」などと称していました。
『神社便覧山州名跡』『雍州府志』などの史料によれば、天武天皇の御代の白鳳年中、この地に一夜のうちに稲の苗が数尺積み上げられ、その上に白羽の矢が置かれており、老翁が現れて「天照大神と日吉神を勧請すべし。さすれば帝都の南方を永く守護するだろう」と告げたので田中社を創建したことが記されています。
またその苗の積み上げられたところを苗塚と称すると記されており、これは今も境内に現存しています。
当社の旧記は焼失し伝えられていませんが、口伝ではかつて氏子の農家の内に「禰宜」と称する家が二戸あったと伝えられ、当社の祭祀に関わる家だったと思われます。
『山城国風土記』残編なる資料によれば、藤岡の頭に神座天穂日命二座を仲冬(旧十一月)に祀り人々は麦を以て神供料としたことが記されているようで、この藤岡とは当地のことであるとの説があります。ただこの『山城国風土記』残編の出典はよくわかりません。
いくつかの史料で当社に関する言及はあるものの、『山城国風土記』残編なる資料を除けば天穂日命を祀っていた記述は見られません。明治年間に式内社「天穗日命神社」は当社に比定されましたがその根拠は明らかでありません。
案内板の記述当地に田中神社があったもののいつの頃か天穂日命神社に合祀されたとしていますが、田中神社が式内社とされて天穂日命神社に改称したのが実際のところだと思われます。
当社の鎮座地は「石田の森」と呼ばれ、『万葉集』に非常に多く詠まれた名所でした(具体例は由緒参照)。このことに加え当社が「石田社」とも呼ばれたことから久世郡の式内社「石田神社」は当社であるとする説がありますが、宇治川右岸である当地が久世郡だったとは到底考えにくく有力ではありません。
古くからの歌枕だった「石田の森」も現在は小さな疎林となり、往時を偲ぶのはやや難しいかもしれません。
境内の様子
境内は団地と小学校に囲まれた一画にあり、境内の東側に入口があります。入口には東向きの鳥居が建っています。鳥居は金属の部品が多数取り付けられており頑丈に補強されています。
鳥居をくぐった様子。境内の森は「石田の森」と呼ばれ『万葉集』に非常に多くの歌に詠まれた名所でしたが、現在は疎らな社叢となっており名所と呼ぶにはやや物寂しい雰囲気です。
参道を進んで社叢を抜けると左側(南側)に手水舎があります。
参道の先の右側(北側)に基壇があり、社殿や境内社が南向きに建ち並ぶ空間となっています。
石段を上った正面に本瓦葺・平入切妻造に切妻破風の向拝の付いた本殿覆屋が建っています。
本殿の様子は殆ど見えませんが、天明三年(1783年)に建立された檜皮葺の二間社流造で京都市登録有形文化財となっています。
本殿前の狛犬。真新しい花崗岩製です。
本社本殿の左側(西側)の空間には三社の境内社が鎮座しています。
本社本殿のすぐ左側(西側)に隣接して「春日神社」が鎮座。
春日神社の左側(西側)に「篭守(こもり)神社」が鎮座。
乳幼児の守護神として信仰されており、灯籠に石を捧げて祈願すると夜泣きが止むと伝えられています。
春日神社・篭守神社の後方(北側)には「大黒大明神」が神社。鳥居と覆屋が設けられています。
本社本殿の右側(東側)の空間には二社の境内社が鎮座。
本社本殿のすぐ右側(東側)に「八幡神社」が鎮座。
八幡神社の右側(東側)に「天満宮」が鎮座。こちらにも鳥居と覆屋が設けられており、他の境内社と比べてやや厚遇された形で祀られています。
参道の先の左側(南側)、本社本殿と向かい合うようにこのような建物が建っています。用途不明ですが拝殿であるとの情報があります。
この建物にかわいらしい龍が描かれた絵馬(?)が掲げられています。
参道を戻ります。参道の途中で左側(南側)へ分岐しており、その先には「苗塚」と刻まれた石碑が建っています。
白鳳年間に一夜のうちに稲の苗が数尺積み上げられてその上に白羽の矢が置かれていたとの伝承があり、ここがその跡であると言われています。
由緒
案内板
京都市伏見区石田鎮座
式内 天穂日命神社 御由緒
案内板
天穂日命神社
地図