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許波多神社 (京都府宇治市木幡東中)

社号 許波多神社
読み こはた
通称
旧呼称 柳大明神 等
鎮座地 京都府宇治市木幡東中
旧国郡 山城国宇治郡木幡村
御祭神 天忍穂耳尊、天照大御神、天津日子根命
社格 式内社、旧郷社
例祭 8月8日、9月26日

 

許波多神社の概要

京都府宇治市木幡東中に鎮座する式内社です。宇治市五ケ庄の「許波多神社」と共に式内社「許波多神社」の論社です。『延喜式』神名帳には名神大社とあり、古くは非常に有力な神社だったようです。

社伝によれば、大化元年(645年)に皇極天皇の夢に「吾天神故に下土に神陵なし、吾が霊を祭祀し給へ」とのお告げがあり、中臣鎌足に詔して木幡に社殿を造営したのが当社であると伝えられます。

また社伝によれば、大海人皇子(後の天武天皇)が近江の大津宮から吉野へ向かう際に、当社の前で馬が進まなくなったので鞭としていた柳の枝を社頭に挿しこみ祈願したところ、不思議と馬が進み吉野に到着でき、壬申の乱に勝利し、また柳の枝も根付いて大きく繁茂したので、即位した天武天皇はこの神威を讃えて「柳大明神」の名を贈ったと伝えています。

 

『山城国風土記』逸文には祇社として「木幡社」の記事があり、「天忍穂長根命」を祀るとあります。この神は諸説ありますが一般に「天忍穂耳尊」と解され、現在も当社の御祭神として祀られています。

しかし『延喜式』神名帳には三座とあり、他の二座については詳らかでありません。当社では天忍穂耳尊の生みの親であり皇祖神である「天照大御神」と、天忍穂耳尊と同時に生まれた「天津日子根命」を併せ祀っています。ただしこの二柱は合祀している田中神社の御祭神だったようです。

また『山城国風土記』逸文の宇治の記事には、菟道稚郎子に因みその地が宇治と名付けられる前は「許乃国(このくに)」と呼ばれていたとあります。このことから、当社の社名は「許(こ)」の国の「端」、つまり「許端(こはた)」を意味するとの説もあります。

 

式内社「許波多神社」のもう一方の論社である五ケ庄の「許波多神社」では、かつて現在の黄檗公園にあたる「柳山」と呼ばれた地に鎮座し、また当社と同様に「柳大明神」と称していました。

元々は当社も柳山に鎮座し、当社と五ケ庄の許波多神社は同じ神社だったとも言われています。一説には応保年間(1161~63年)に神社が分かれ、柳山から現在地に分祀されたとも伝えられています。

『山城志』には木幡に二座、五箇荘に一座ありと記されているので、式内社「許波多神社」三座の内二座が当社に分かれ、残る一座が柳山に残って現在の五ケ庄の許波多神社に継承されたとも考えられます。ただし、この二座が如何なる神だったかは詳らかでありません。

柳山の地も明治年間の陸軍宇治火薬製造所のために五ケ庄の許波多神社も移転を余儀なくされました。

黄檗公園となった現在はかつてを偲ぶよすがは京都大学宇治キャンパス近くにある一の鳥居の残骸くらいしかありませんが、柳山に鎮座していた式内社「許波多神社」の信仰を継承する二社の神社が近隣の低地に残っているのもまた歴史を感じさせるものではあります。

 

境内の様子

当社境内の100mほど西方に一の鳥居が西向きに建っています。

 

一の鳥居をくぐって道を進むと正面に境内入口があります。

境内は非常に鬱蒼とした社叢になっており、応保年間に遷座されたとの伝承が正しいのなら850年ほどの間にこのような森が形成されたことになります。

 

境内に入るとコンクリート製の参道が敷かれてあり、途中で右側(南側)へ折れます。

 

さらに進むと左側(東側)に石段があり、その上に二の鳥居が西向きに建っています。この奥の広い空間が社殿等の立つ主要な神域です。

 

二の鳥居をくぐって左側(北側)に手水舎があります。

 

二の鳥居の正面に西向きに社殿が並んでいます。

拝殿は桟瓦葺・妻入入母屋造の三間四方の舞殿風拝殿。ただし床が無く土間となっています。

 

正面に銅板葺・平入切妻造の拝所(中門)が建ち、透塀で本殿を囲っています。

 

拝所前の狛犬。花崗岩製の比較的新しいものです。

 

透塀の内側に二棟の銅板葺・一間社流造の本殿が横に並んでいます。右側(南側)が本社本殿、左側(北側)が田中神社の本殿です。

一見同じ規格のように見えますが、右側の本社本殿の方が若干大きなものとなっています。一方で田中神社本殿の方が古いようで、元文元年(1736年)の墨書があるようです。

案内板「許波多神社田中神社本殿」

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京都府暫定登録文化財

許波多神社田中神社本殿

木槌に元文元年(一七三六)の墨書がある 元は字正中にあった木幡北部の産土神である

柱上に絵様枠肸肘をのせ妻飾は虹梁大瓶束で虹梁・笈形等には複雑な絵様を彫る意匠

華やかな建築である

(京都府教育庁文化財保護課調書より)

平成三十年五月
許波多神社

 

拝所前の右傍らにこのような岩石が置かれています。

これは「お休み石」と呼ばれ、大海人皇子(後の天武天皇)が当社の前を通った際に腰掛けた石だと言われています。

案内板「勝運が授かるお休み石」

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勝運が授かるお休み石

大海人王子(後の天武天皇)が当神社の前をお通りになった時大きな石に腰掛けてお休みになりました

この石はその後本殿前に安置されました

腰掛けて願えば勝運が授かります

平成三十年五月
許波多神社

 

本社社殿の左側(北側)に四社の境内社が南向きに並んでいます。全て桟瓦葺の流見世棚造。

 

境内社群の内、最も左側(西側)に鎮座しているのは「春日神社」。

社殿の左傍らに「毘沙門天」と刻まれた石碑が建っています。お堂などの信仰施設が見当たらず、毘沙門天を祀るお堂の跡なのでしょうか。

 

春日神社の右側(東側)に「天照皇大神宮」が鎮座。

 

天照皇大神宮の右側(東側)に「八幡宮社」が鎮座。

 

八幡宮社の右側(東側)に鎮座するのは三社の相殿です。左から順に「愛宕神社」「稲荷神社」「市杵島神社」を祀っています。

 

鬱蒼とした境内にはいくつかの巨樹もあります。

境内北東側には樹齢150年と推定されるクスノキ(左写真)が、本社本殿右側(南側)には同じく樹齢150年と推定されるヤブツバキ(右写真)があり、共に宇治市銘木百選に選ばれています。

 

道を戻ります。二の鳥居の右側(南側)の石積みの中に椅子状の岩石があり、地蔵仏のように白色の涎掛けが掛けられています。

これは人々に祀られているのでしょうか。石積みに溶け込んでありながらこの石だけ目立つ装飾が施されており、気になる存在です。

 

二の鳥居の手前側(西側)の森の中に「宇治陵」があり、玉垣で囲われています。

宇治陵とは宇治市周辺にある数十の藤原氏関係の陵墓群で、これはその一つです。

狐塚」とも呼ばれており、伝承では藤原基経の墓であると言われています。

 

タマヨリ姫
「許波多神社」って二つあるけど元々は同じだったの?
元々は両方とも柳山というところに祀られていたとも言われていて、一つの神社だった可能性があるわね。こちらの神社は平安時代末にここに遷ってきたとも言われているわ。
トヨタマ姫

 

由緒

案内板「由緒」

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由緒

一、鎮座地

京都府宇治市木幡東中1番地

一、祭神

正哉吾勝々速日天忍穂耳尊
天照大御神
天津日子根命

一、由緒の概要

皇極天皇はお夢の中で「吾れ天神故に下土に神陵なし吾が霊を祭祀し給へ」との大神の御告げに恐懼され藤原鎌足公に詔して木幡荘に神殿を造営し大化元年九月十六日(西暦六四五)奉遷し式内木幡(許波多神社)と尊稱さる。天智十年十月大海人王子(後に天武天皇)は天智天皇と意見の相違が生じて大津の宮より吉野へ向われる途中当神社前で龍馬が進まず御鞭に柳枝を奉りしに親王は御自らその柳枝を瑞垣の側土中に挿しこみ神明の冥助を祈願し賜いし処不思議や龍馬が急に進みて無事に吉野に到着さる。大海人王子は「壬申の乱」に御戦勝後白鳳二年一月飛鳥浄見原宮で即位し給う。兵草の患いなく天下よく治まると共に彼の柳枝も大きく繁茂す是偏へに神明の御加護と叡感あり、神柳に正一位官幣を寄進さる。よって柳大明神と奉稱する。

以後代々の天皇より勅使参内、奉幣、官幣の寄進等度々ありその間社殿の造営、修理等数度に渉りなされている。

追記 明治四十二年一月 田中神社を合祀して今日に至る。

 

地図

京都府宇治市木幡東中

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