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許波多神社 (京都府宇治市五ケ庄古川)

社号 許波多神社
読み こはた
通称
旧呼称 柳大明神 等
鎮座地 京都府宇治市五ケ庄古川
旧国郡 山城国宇治郡五ヶ庄村
御祭神 瓊々杵尊、天忍穂耳尊、神日本磐余彦尊
社格 式内社、旧郷社
例祭 11月3日

 

許波多神社の概要

京都府宇治市五ケ庄古川に鎮座する式内社です。宇治市木幡の「許波多神社」と共に式内社「許波多神社」の論社です。『延喜式』神名帳には名神大社とあり、古くは非常に有力な神社だったようです。

社伝によれば、大化元年(645年)に蘇我石川麻呂の奏上で皇祖の神霊を奉祀するため孝徳天皇が中臣鎌足に詔して当社を創建したと伝えられています。

『山城国風土記』逸文には祇社として「木幡社」の記事があり、「天忍穂長根命」を祀るとあります。この神は諸説ありますが一般に「天忍穂耳尊」と解され、現在も当社の御祭神として祀られています。

しかし『延喜式』神名帳には三座とあり、他の二座については詳らかでありません。当社では天忍穂耳尊の御子である「瓊々杵尊」およびその曽孫であり初代天皇の「神武天皇」を併せ祀っています。

また『山城国風土記』逸文の宇治の記事には、菟道稚郎子に因みその地が宇治と名付けられる前は「許乃国(このくに)」と呼ばれていたとあります。このことから、当社の社名は「許(こ)」の国の「端」、つまり「許端(こはた)」を意味するとの説もあります。

 

当社は元々は現在地の東方1.5kmほどの黄檗公園辺りに鎮座し、その地は「柳山」と呼ばれ当社も近世以前は「柳大明神」と称していました。

しかし明治八年(1875年)に陸軍宇治火薬製造所の建設のために社地の移転を余儀なくされ、翌九年(1876年)に御旅所だった現在地に遷座しました。

黄檗公園から西に伸びる道はかつて当社の参道であり、そこからJRと京阪の踏切を渡った先に現在も鳥居の基部が残っています。

式内社「許波多神社」のもう一つの論社である木幡地区の「許波多神社」もかつて「柳大明神」と呼ばれ柳山に鎮座していたことが示唆され、元々は柳山に祀られる同一の神社だったのがいつの頃か二社に分かれたとする説もあります。

『山城志』には五箇荘に一座、木幡に二座ありと記されているので、式内社「許波多神社」三座の内二座が木幡の許波多神社に分かれ、残る一座が当社に残ったとも考えられます。

 

先述の通り柳山に鎮座していた頃の当社は西に参道が伸びており、馬場として古くから氏子が南北に分かれて競馬の神事が行われていました。このため当社は馬の神社としても信仰され、競馬ファンおよび競馬関係者の信仰を集めています。

当社では平安時代の鐙(乗馬の際に足を掛ける馬具)が伝わっており、国指定重要文化財となっています。当社と馬の関係の非常に古いことが窺えます。

また、本殿は室町時代に建立された三間社流造の貴重な建築で、こちらも国指定重要文化財となっています。柳山に鎮座していた頃の社殿を移築したのでしょう。

さらに平安時代後期の作例と考えられる男女一対の神像も伝わっており、こちらは京都府指定有形文化財となっています。これとは別に天忍穂耳命とされる鎌倉時代の神像が本殿に安置されています。

このように数多くの文化財を伝える神社でもあり、非常に由緒ある神社であることがわかります。柳山に鎮座していた頃は広大な社地を抱えていたと言われ、当地域有数の神社として大切に守り伝えてきたことが窺えるだけに、近代に至り強制的に移転させられたのは実に惜しいことです。

なお、当社の神は唐臼(シーソー状の杵を足で踏んで搗く道具)の音と鶏の声を嫌ったとされ、唐臼の使用を忌み、鶏を飼うことを避ける風習があったようです。

同様に唐臼を忌む風習は大阪府岸和田市中井町の「夜疑神社」でもありましたが、何故そのような風習が生まれたのかは不明です。

 

境内の様子

境内入口。当社の社地は概要に述べた通り元々御旅所だった地ですが、鬱蒼としており単なる御旅所でなく神域として信仰された地だったことが窺えます。

 

境内入口に一の鳥居が南向きに建っています。

 

鳥居をくぐり参道を進むと左側(西側)に手水舎があります。

手水舎の左右に置かれている細長い石はかつて柳山に鎮座していた時に宮川に架かっていた橋桁です。

 

手水舎の傍らに聳えるムクノキ。樹齢500年と推定され、高さ17mにもなる大木です。

これほどの樹木が境内にあることから、やはり当地は単なる御旅所でなく古くから信仰の地だったのでしょう。

近代の移転は残念な出来事ですが、当社に立派な御旅所があったことは幸福なことだったと言えるかもしれません。

 

さらに参道を進むと開けた空間になり、二の鳥居の朱鳥居が建っています。

 

二の鳥居の左右に配置されている狛犬。花崗岩製の比較的新しいものです。

 

二の鳥居をくぐると正面に社殿が南向きに並んでいます。やはり元が御旅所だっただけに手狭な印象。

拝殿は桟瓦葺・平入入母屋造に軒唐破風の付いた割拝殿。

 

割拝殿の通路を抜けると石段があり、その上の空間に本殿が建っています。

本殿の前には妻入切妻造の拝所(中門)と瑞垣が設けられ、朱に塗られて非常に鮮やかなものとなっています。

本殿は檜皮葺の三間社流造で、室町時代に建立された貴重な建築で国指定重要文化財。しかし瑞垣で囲まれているためよく見えません。

瑞垣の内側に境内社も鎮座していますが見通し困難のため詳細は不明です。

 

当社はかつて柳山に鎮座していた頃に参道(馬場)において競馬が行われ、また平安時代の馬具が伝えられるなど、馬と関係の深い神社でした。

拝殿前に立派な馬の銅像があり、現在も競馬ファンや競馬関係者の信仰が寄せられているようです。

案内板「許波多神社と神馬」

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許波多神社と神馬

神馬(しんめ)とは神様がお乗りになる馬のことです。

許波多神社が創建された飛鳥時代のような昔には、神様に祈願する際、願い事が成就するように、馬を神馬として奉納されることがありました。許波多神社においても、昔には、神馬が奉納され、祭礼が行なわれたと考えられています。

江戸時代以前、柳山(現在の宇治市黄檗公園)に鎮座していた頃は、社前から西の大池(巨椋池)に達する東西一直線の馬場道があり、北部・南部に分かれた氏子地域によって、祭礼が執り行なわれていた、という伝承が残されています。

社宝として現存する二つの鞍と鐙(あぶみ)は、二頭の神馬が馬場道を荘厳に駆けていた様子を想起させます。

 

当社が「馬の神社」として崇敬を集める一方、当社境内には人懐こい猫がおり、「猫の神社」としても一部で知られています。

悠々自適に行動する彼らを見ていると時間を忘れてしまいます。

 

タマヨリ姫
わあー猫ちゃんがいっぱい💕
元々は馬の神社とも言われていたけれど、今は猫の神社としての方が有名かもしれないわね。
トヨタマ姫

 

御朱印

 

由緒

案内板「許波多神社略記」

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許波多神社略記

御祭神

瓊々杵尊
神天忍穂耳尊
神日本磐余彦尊 諡 神武天皇

当神社は孝徳天皇大化元年(六四五)勅願により皇祖の御神霊を奉祀するため創建せられ延喜式神名帳(九二七)所載の大社である 永禄十二年(一五六九)九月正一位の神位を宣叙せられた 明治八年旧大和村柳山に境域三万六千余坪擁し鎮座の故に柳大明神と称し奉った

寛永十七年(一六四〇)の秋五ヶ庄及び近在に牛馬疫病流行 信尋公が牛馬疫と心労で病める人々の平癒御祈祷をこめて次の和歌を御献詠になったところさしも激しかった疫病も急に治まったという(山城名勝志にも記載)

憐をたるる柳の神ならば 死ぬるをうし思ひやはせぬ

延宝六年(一六七八)社殿営繕の折宮中より金品を賜った 天和二年(一六八二)遷宮のおり神祇管領吉田兼連卿御参向近衛家より正副奉幣帛を供進せられた 累代例祭遷宮祭等には近衛家より奉幣使が参向されるのが恒例となった 明治九年柳山境内地が陸軍火薬庫用地に上地仰付られ旧岡屋村の当神社御旅所だった現在地に移転 柳神社を現名称に復した

重要文化財
┏本殿(附)厨子二基棟札
┗半舌鐙(附)長舌鐙

府指定有形文化財
男女神像二躯

『都名所図会』

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柳大明神は木幡里にあり。天忍骨尊を祭る。この里の産砂神とす。例祭は九月十六日。

 

地図

京都府宇治市五ケ庄古川

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