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八坂神社 (京都府京都市東山区祇園町北側)

社号八坂神社
読みやさか
通称祇園さん 等
旧呼称祇園社、祇園感神院 等
鎮座地京都府京都市東山区祇園町北側
旧国郡山城国京都祇園町
御祭神素戔嗚尊、櫛稲田姫命、八柱御子神
社格二十二社、旧官幣大社
例祭6月15日

 

八坂神社の概要

京都府京都市東山区祇園町北側に鎮座する神社です。二十二社の下八社に加えられ、古くから現在に至るまで非常に有力な神社です。

全国的に非常に有名な神社ですが、当社の創建について確定的なことはほぼありません。

社伝によれば、斉明天皇二年(656年)に高麗より来朝した使節の「伊利之(いりし)」という人物が、新羅国の牛頭山に座していた素戔嗚尊を当地に祀ったことが創建であると伝えられています。

『新撰姓氏録』山城国諸蕃に狛国人の留川麻乃意利佐を出自とする「八坂造」が記載されており、留川麻乃意利佐が伊利之と同一であるとしてこの氏族が奉斎したとするものです。

一方で歴史学者・久保田収の説によれば、貞観十八年(876年)に南都の僧「円如」が建立し、堂に薬師如来、千手観音等の仏像を安置し、その後祇園神が垂迹したものとしており、この説が一定の支持を得ています。

また現在の兵庫県姫路市広嶺山に鎮座する「廣峯神社」から貞観十一年(869年)に神を勧請して当社を創建したとする説も広く知られています。

この説は鎌倉時代以降に廣峯神社が権威付けのために主張したに過ぎないとする見方がある一方、『三代実録』貞観八年(866年)七月十三日条に見える播磨国の「速素戔烏神」は廣峯神社であると考えられるため、式内社ではなくとも当社より古くから素戔嗚尊を祀っていたことが窺え、可能性を排除しきれるものではなさそうです。

 

当社の現在の主祭神は「素戔鳴尊」ですが、近世以前は「牛頭天王」と称し祀られていました。

牛頭天王は釈迦が説法を行った寺院の一つである祇園精舎の守護神とされていますが、この神の登場する経典は偽経であり、また中国や朝鮮半島をはじめ海外でこの神が見られないことから、日本独自に生まれ信仰された神であると考えられています。

牛頭天王がどのようにして発生し、どのような神だったかは詳らかでありません。一般には「武塔神」及び「素戔嗚尊(スサノヲ)」と同一であるとされています。

武塔神も中国など海外の文献に登場せず出自のはっきりしない神ですが、『備後国風土記』逸文において武塔神が登場し、「速須佐能神」と名乗って蘇民将来に疫病から回避する術を伝えており、疫病神としての神格が現れると共に武塔神とスサノヲが同一であることが示されています。

また武塔神は遅くとも平安時代末期以降、『伊呂波字類抄』『祇園牛頭天王御縁起』など様々な文献で牛頭天王と同一、もしくは牛頭天王の父であるとしており、後に武塔神と牛頭天王が同一神であると固定化されたようです。

即ち、武塔神とスサノヲが同一であり、また武塔神と牛頭天王が同一であることから、スサノヲと牛頭天王も同一であるとする理解が生じたことが推測されます。

平安時代末期の『辟邪絵』では天刑星(疫神などを食べて退治する星神)が疫神と共に牛頭天王をもつかんで食べる絵が描かれており、牛頭天王は疫病をもたらす疫病神、行疫神と見なされていたことが窺えます。

しかし次第にこうした行疫神を丁重に祀ることで疫病の流行を阻止し平穏な生活を祈る信仰へと変化し、いつしか疫病退治の神として信仰されるようになっていきます。

当社の祭礼である「祇園祭」は貞観十一年(869年)に行われた「祇園御霊会」が起源であるとされており、これは疫病の流行を鎮めるためのものでした。

廣峯神社勧請説ではこの年に当社が創建されたとし、円如創建説ではこの七年後に建立されたとしています。いずれにしても貞観年間の疫病の流行を受けて当社が創建されたことを示唆しています。

このように見ると当社は当初から疫病の鎮撫を期待して創建され、疫病退治の神として信仰されたようにも見えます。

ただ、『扶桑略記』などの史料を見る限り平安時代頃までは当社の神は専ら「天神」とだけ見えており、当社の神として「牛頭天王」と見えるのは鎌倉時代以降です。

このことから、当社は当初、牛頭天王とは別の神である疫病退治の神「天神」を祀っていた可能性も考えられます。

このように当社の神は由来が不詳であり、疫病退治の神だったらしいことは窺えつつも、なかなか捉えどころの難しい神であると言えます。

当初からの神か後世に結びついたのかは不明ながら、牛頭天王自体もまた出自不詳であり、仏教や陰陽道による解釈も多大に加えられ、その神格は複雑多岐に亘っています。

 

当社が貞観年間頃に創建されたのならば『延喜式』神名帳に記載されていても良さそうですが、実際には記載されていません。

これは当社が神社というよりは寺院に近いと見られていたからと考えられています。近世以前には「祇園感神院」とも称し、仏教的な要素を多く取り入れた宗教施設として崇敬されていました。

一方で平安時代中期以降は神社としても認識されるようになり、二十二社の下八社の一つとして他の名だたる神社と並べられています。

明治年間の廃仏毀釈により感神院の号を廃して「八坂神社」と称するようになり、祭神も仏教的な神と見なされた牛頭天王を同神とされる素戔鳴尊へ変更しました。

神仏混淆の複雑な信仰を持つ当社も神社として再編され、さらに疫病の流行も少なくなった近現代は信仰も様変わりしていきましたが、京都市中の広い範囲を氏子とする当社は今も京都の人々に根強く信仰されています。

加えて京都の代表的な観光地ともなっており、現在は国内外を問わず常に多くの人で賑わう神社となっています。

 

境内の様子

八坂神社

当社境内の入口は東西南北それぞれにあり、中でも四条通の突き当りにあるこの西側の入口から入る参拝客が多数を占めます。こちらの入口を先に紹介しておきます。

西側入口の石段の上には本瓦葺・平入切妻造の三間一戸の朱塗りの楼門が西向きに建てられており、「西楼門」と呼ばれています。

明応六年(1497年)に建立された当社最古の建物で、貴重な建築として国指定重要文化財となっています。

当社参拝の際に多くの人がまずこの楼門を目にすることになり、非常によく知られた建物です。

 

西楼門の左右の部屋にはそれぞれ随身像が安置されており、随身門としても機能しています。

 

西楼門前に配置されている狛犬。銅製です。

 

さて多くの人が西側の入口から参拝する一方、当社の正式な表参道はこちらの南側の入口となります。

南側の入口には石鳥居が南向きに建てられています。この鳥居は正保三年(1646年)に建立されたもので、こちらも国指定重要文化財となっています。

 

鳥居をくぐると銅板葺・平入入母屋造の三間一戸の朱塗りの楼門が南向きに建っており、こちらは「南楼門」と呼ばれています。

 

南楼門にも左右の部屋に随身像がそれぞれ安置されており、随身門として機能しています。

 

南楼門の前には二対の狛犬が配置されています。

手前側(南側)に配置されている一対の狛犬は砂岩製。

 

奥側(北側)に配置されている一対の狛犬は備前焼の陶製で、網で覆われています。

 

南楼門をくぐって左側(西側)に手水舎があります。

 

八坂神社

南楼門をくぐると広い空間となっており、正面に南向きの社殿が並んでいます。

すぐ正面に建っているのは、一般的な京都の神社では拝殿にあたる建物ですが、当社では「舞殿」と称しています。

銅板葺・平入入母屋造で桁行三間、奥行二間の大規模な建物。多くの提灯が吊るされており賑やかな建築となっています。

 

八坂神社本殿

八坂神社本殿

舞殿の後方に本殿が建っています。檜皮葺の七間社入母屋造で向拝が付いており、朱が施されています。

当社の本殿は拝殿を併せ持ったもので、外陣にあたる部分に人が出入りできる構造となった独特の形式です。この形式は「祇園造」とも呼ばれています。

この本殿は正保三年(1646年)に焼失したものを承応三年(1654年)に再建したもので、以前の建物を忠実に再現されたものとされており、2020年に国宝に指定されました。

本殿の中御座に「素戔嗚尊」が、東御座に「櫛稲田姫命」が、 西御座に「八柱御子神」が祀られています。

伝承では本殿の床下に非常に深い龍穴(井戸あるいは泉のようなもの)があると言われています。

 

お知らせ

本来ならば当社の境内社を一つずつ紹介したいところですが、当社の境内社は撮影禁止となっており、紹介することができません。従って、境内社については割愛させていただきます。

 

タマ姫
八坂神社って有名だしあちこちで信仰されてるけど式内社じゃないんだね!
『延喜式』の頃には存在したと思うけど、その時は神社というよりお寺と見なされてたようね。でも二十二社に加えられたりと、後には神社としての側面も出てきたみたいよ。
トヨ姫

 

御朱印

 

由緒

案内板

八坂神社

『都名所図会』

 

地図

京都府京都市東山区祇園町北側

 

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