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夜疑神社 (大阪府岸和田市中井町)

社号夜疑神社
読みやぎ
通称
旧呼称
鎮座地大阪府岸和田市中井町
旧国郡和泉国南郡中井村
御祭神布留多摩命 他十六柱
社格式内社、旧郷社
例祭10月9日

 

夜疑神社の概要

大阪府岸和田市中井町に鎮座する式内社です。

当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、当地は『倭名類聚抄』にある和泉国和泉郡の「八木郷」と推定され、当地に居住した「八木氏」が祖神を祀ったのが当社であると考えられています。

『新撰姓氏録』右京神別に和多罪豊玉彦命の子、布留多摩乃命の後裔であるという「八木造」が登載されており、和泉国には見えないもののこの氏族が当社を奉斎したものと思われます。

八木氏の祖神であり当社の御祭神である「布留多摩命」は海神である豊玉彦命の子であり、豊玉姫命と兄弟姉妹の関係にあたります。このことから八木氏は、同様に豊玉彦命を祖とする海人族「安曇氏」と同族であることが示唆されています。

海人族は弥生時代以降に海を舞台に卓越した航海技術や漁労技術で活躍した集団であり、海部を統括した安曇氏はその代表的な存在です。八木氏もまた航海や漁労で海と関係を持っていた氏族だったことが考えられます。

このように考えると、当社の御祭神「布留多摩命」もまた海神としての神格を持っていたことになりましょう。

当地が海の側だったとは考えにくいとしても、かつての海岸線はより内陸側にあり、海人族の拠点として問題ない距離だったと思われます。

古代の物流の幹線だった瀬戸内海の東端であり、また現在の大阪市内のどこかにあったと推測されている安曇氏の拠点「安曇江」や航海の神の聖地とも呼べる「住吉大社」(大阪市住吉区住吉に鎮座)とも近く、海運の拠点として申し分ない立地だったと考えられます。

 

海人族と掃守氏

また、当社の西方1.5kmほどの八幡町に鎮座する「弥栄神社」はその由緒として掃守(かにもり/かもり)氏の祖である「振魂命」を鎮座したのが創建であると伝えています。

掃守氏と八木氏は別系統の氏族と考えられますが、掃守氏の祖の「振魂命」と八木氏の祖の「布留多摩命」が似たような神名であり、それぞれが近隣の地に祀られている(いた)ことは果たして偶然でしょうか。

『倭名類聚抄』にある和泉国和泉郡の「掃守郷」は「八木郷」に隣接していたと見られ、かつて掃守郷の氏神だった「兵主神社」(西之内町に鎮座)には境内社に豊玉姫命が祀られています。

忌部系の史書『古語拾遺』には豊玉姫命が鵜草葺不合命を出産する際、天押人命(降魂命の四世孫)が産屋にいた蟹を箒で掃ったので、「蟹守(かにもり=掃守)」と称するようになったとする話があります。

神話の上ではあるものの、海人族と掃守氏との間で関係性があったことが示唆されており、当地における「八木」と「掃守」はそのことを示しているのかもしれません。

 

夜疑神社と唐臼

さて、当社では古くから神が唐臼(シーソー状の杵を足で踏んで搗く道具)を嫌っていたため氏子は唐臼を使ってはならないと伝えられていました。これではあまりに生活に不便だったので寛保元年(1741年)の八月九日に祭事を行って神の許しを得て、それ以来唐臼の使用が解禁されたと伝えられています。

同様に唐臼の使用を忌む風習は京都府宇治市五ケ庄の「許波多神社」でもあったようですが、何故このような風習があったのかはよくわかっていません。

岸和田市のウェブサイトでは、布留多摩命に会いに来た豊玉姫命が唐臼の音を聞いて帰ってしまうことを憎んで唐臼を嫌ったとする「昔話」が掲載されています(外部リンク: https://www.city.kishiwada.osaka.jp/soshiki/3/mukashi6-3-yagijinjatokarausu.html )。しかし、当社の神職の方に話を伺ったところ「そのような話は無い」と断言していらっしゃいました。

「昔話」は残念ながら作り話の可能性が高いと思われますが、唐臼を忌む風習は確かにあったようで、現在も神に唐臼の使用の許しを乞うた際の祝詞が文書として伝わっているようです。

どのような経緯があったのか不明ながら、恐らく海人族だったであろう八木氏の信仰から続く当社の歴史に思いを馳せずにおられません。

 

境内の様子

一の鳥居は境内の南西約100mほどのところに南西向きに建っています。

 

一の鳥居からまっすぐ進んでいくと境内入口です。

 

入口からさらに進んでいくと右側(南東側)に手水舎があります。

 

夜疑神社

正面にはちょっとした石段があり二の鳥居が建っています。その先のやや土地の高い空間に社殿が並んでいます。

 

二の鳥居の両脇に花崗岩製のやや古そうな狛犬が配置されています。

 

夜疑神社

夜疑神社

社殿も南西向きですが、鳥居よりもやや南側にズラして建てられています。2013年に社殿を建て替えており、真新しい建築が並んでいます。

拝殿は銅板葺・平入入母屋造に軒唐破風付きの大きな向拝を付けたもの。

 

ちなみに2013年以前の拝殿はこのようなものでした(写真は2011年のもの)。RC造で朱の施された鮮やかな建築でした。

RC造から木造に建て替えられるのは珍しい例ではないでしょうか。

 

夜疑神社本殿

本殿は瑞垣に囲われて建っており、檜皮葺で三間社流造に千鳥破風と軒唐破風の付いたものです。

本殿の右側(南東側)にお立ち台が設けられており、ここから本殿を拝観することを推奨しているようです。上の本殿の写真もここから撮ったもの。

わざわざ本殿を見るための設備を整えているのは極めて珍しく、この本殿は新しいものですが、地元の人々にとって自慢のものであることが伝わってきます。

 

社殿前の右側(南東側)に境内社の「戎神社」が西向きに鎮座しています。御祭神は「事代主神」。

それまで合祀されていたのを昭和五十七年(1982年)に本社から独立して祀られ、拝殿と本殿が建てられています。境内社としては破格の待遇です。

 

本社社殿の左右から境内背後の森の中へ入ることができます。こちらは左側(北西側)の道で、こちら側はこのように鳥居が建てられています。

 

この道の途中には二基の牛の石像が置かれています。

当社が天満宮や牛頭天王社だったとする記録は見当たらない一方で、当社は明治年間に非常に多くの神社を合祀したため、この石像は合祀された神社にあったものと推測されます。

特に左側の石像の基壇には「字吉井」と刻まれており、吉井地区から菅原神社を合祀したことが記録されているため、かつてそこにあったものを移してきたものでしょう。

 

さらに森の中へ道を進むともう一基鳥居が建っています。

 

二基目の鳥居の前に配置されている狛犬。こちらは砂岩製です。

 

二基目の鳥居をくぐると正面に境内社の「稲荷神社」が玉垣に囲まれて鎮座しています。御祭神は「倉稲魂神」。

 

稲荷神社の左側(北西側)に「祖霊社」が覆屋内に鎮座しています。

 

境内奥の森は稲荷神社や祖霊社に沿って北西~南東にかけて道が貫いており、社殿左右の道と接続しています。このため森の中を一周することが可能な構造となっています。

森の中は非常に鬱蒼としており、周りを宅地に囲まれながらも貴重な植生を残しています。

 

森を貫く道の東端(境内の東端でもある)からは北東側へ出られる出入口があり鳥居が建っています。

一方で道の西端にも出入口がありますがこれは後述。

 

東端の出入口付近にも狛犬が配置されています。花崗岩製で年季の感じられるもの。

このように当社の境内には様々な狛犬があり、いずれも古く感じられつつも顔つきが異なっています。牛の石像と同様に合祀された神社から持ってきたものかもしれません。

 

道を戻ります。手水舎に隣接して池があり、そこに「市杵島神社」の石祠が鎮座しています。御祭神は「市杵島姫命」。

この池は「雨淵」と呼ばれています。昔旱魃があった際、神に祈ったところお告げがあり、境内の一画を穿って神より与えられた幣帛を底に納めたところ、水が湧き出て雨が降り、それ以来ここは池となってどんな旱でも涸れることは無いと伝えられています。

 

当社後方の森を西側から眺めたところ。こんもりとした森になっている様子がわかります。

森の中を貫く道の西端はここに通じており、こちらにも鳥居が建っています。

 

当社から海へは2~3kmほど離れています。当社を奉斎したとされる八木氏は安曇氏と同族であり航海や漁労に長けていたことが考えられます。

かつてはより海岸線が内陸側にあり、当社も海に近いところだったのかもしれません。

写真は忠岡町の埋め立て地から大阪湾を眺めた様子。奥に六甲山の山並みが見えます。八木氏もこのような眺めを前に暮らしてきたのでしょうか。

 

タマヨリ姫
ここの神社を祀ってきた人たちは海と関係が深かったの?海からはちょっと離れてるような気もするけど。
そうね。かつてはもうちょっと海岸線が内側にあったんじゃないかしら。そうだとすると航海や漁労の拠点としては好都合な地だったと思うわ。
トヨタマ姫

 

御朱印

 

由緒

案内板

夜疑神社御由緒

 

地図

大阪府岸和田市中井町

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