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平群坐紀氏神社 (奈良県生駒郡平群町上庄)

社号平群坐紀氏神社
読みへぐりにますきのうじ
通称
旧呼称辻の宮、椿の宮、春日大明神 等
鎮座地奈良県生駒郡平群町上庄5丁目
旧国郡大和国平群郡上庄村
御祭神天照大神、天児屋根命、都久宿禰、八幡大菩薩
社格式内社、旧村社
例祭10月第1日曜日

 

平群坐紀氏神社の概要

奈良県生駒郡平群町上庄5丁目に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳には名神大社とあり、古くは極めて有力な神社だったようです。

当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、「紀氏」が当地に居住し祖神を祀ったのが当社であったと考えられます。

紀氏について、『新撰姓氏録』には次の氏族が登載されています。

  1. 左京皇別「紀朝臣」(石川朝臣同氏 / 建内宿祢の子、紀角宿祢の後)
  2. 右京皇別「紀朝臣」(石川朝臣同氏 / 屋主忍雄建猪心命の後)
  3. 河内国神別「紀直」(神魂命の五世孫、天道根命の後)
  4. 和泉国神別「紀直」(神魂命の子、御食持命の後)

上記から、紀氏には皇別氏族である1.2.の系統と、神別氏族である3.4.の二系統があることがわかります。またこれらの他にもそれぞれの関係氏族が多数登載されています。

当社と関係するのは前者の皇別氏族の方であると考えられています。『新撰姓氏録』には大和国に登載がありませんが、恐らく漏れているのでしょう。

皇別氏族の紀氏は武内宿禰の子である「紀角(きのつの)」を祖としています。紀角は当地付近を拠点とした平群氏の祖である「平群木菟」の弟であり、系譜上は平群氏と紀氏は同族であると言えます。

現在の当社の御祭神は「天照大神」「天児屋根命」「都久宿禰」「八幡大菩薩」で、この内の「都久宿禰」とは「平群木菟」のことです。

紀氏が奉斎した神社であるのなら紀氏の祖である「紀角」を祀るのが自然ですが、平群氏の祖である「都久宿禰(平群木菟)」を祀っているのは不可解です。紀角と平群木菟は兄弟である上、ツノとツクで紛らわしいため、何らかの手違いで入れ替わってしまったのかもしれません。

本来の御祭神は「紀角」もしくは「武内宿禰」だったものと思われます。

 

神別氏族の紀氏は文字通り紀伊国を本貫とした氏族だったのに対し、皇別氏族の紀氏は当地が本貫だったようで、当社は皇別紀氏の氏神として篤く崇敬を受けたことが考えられます。

祖が兄弟関係にある平群氏もまた当地を本貫としており、皇別紀氏と平群氏は互いに深い関係にあったことも推測されます。

一方で皇別紀氏もまた紀伊国と関係があったとされ、当社の南東500mほどの地にある「三里古墳」は紀ノ川流域に見られる石棚付石室を持つ奈良盆地唯一の古墳であり、当社との関係を指摘する説もあります。

皇別紀氏は奈良時代以降に優秀な人材を多く輩出し、光仁天皇の母が皇別紀氏の出身であったことから外戚氏族としても権力を強め、大いに繁栄しました。

平安時代以降は藤原氏に押されて徐々に衰退していきますが、当社が名神大社に列したのは、それでもなお皇別紀氏が一定の影響力のある大氏族であると評価されてのことでしょう。

貞観十二年(870年)の平群谷における家屋の売買について記した文書に当社についての言及があり、その記述から当社はその当時、現在地から2kmほど南方、椿井地区に鎮座していたと考えられます。

当社がかつて「椿の宮」とも呼ばれていたのはかつて椿井地区に鎮座していた名残なのかもしれません。

一方で式内社「平群坐紀氏神社」は椿井地区から遷座していないとする説もあり、同地区に鎮座している「平群氏春日神社」に比定する説もあるようです。

当社の境内には三棟の座小屋が設けられ、神事の詰所として使用される他、中世において役人を接待したとも伝えられています。

このことから、当社が椿井地区から遷座したとしても、少なくとも当地における歴史は数百年以上になると思われます。

 

境内の様子

上庄地区の田圃に囲まれたやや土地の高くなったところにこんもりとした森があり、そこが当社の境内です。

 

平群坐紀氏神社

境内入口は境内の西側にあり、鳥居が西向きに建っています。

 

鳥居をくぐった様子。鬱蒼とした社叢の中をまっすぐ参道が伸び、石畳が敷かれています。

 

参道途中、左側(北側)に神饌所があります。

神饌所とは通常神前に供える神饌(食物など)を調理する施設ですが、この小さな建物で調理することは難しそうです。

切る、盛るといった簡単な調理を行い神饌を準備するのでしょうか。

 

神饌所の右側(東側)に手水舎があります。手水鉢に生えた龍の首が吐水となっています。

 

平群坐紀氏神社

平群坐紀氏神社

さらに参道を進むと正面に社殿が西向きに建っています。

拝殿は桟瓦葺・平入切妻造の割拝殿。比較的小規模なものです。

 

拝殿前の狛犬。砂岩製で堂々とした出で立ち。

 

拝殿後方、塀に囲われて本殿が建っています。銅板葺の一間社春日造で朱の施されたもの。

 

座小屋

本社拝殿前の敷地には北側・西側・南側にそれぞれ「座小屋」が囲うように建っており、当社最大の特徴となっています。

これらは神事の際に用いられる詰所で、氏子である上庄・椣原・西向の三地区それぞれの詰所となっています。

このような神事で用いられる詰所は奈良県~京都府南部でよく見られ、神社によって呼び名が異なり「仮舎」「詰所」などと呼ばれています。

当サイトではこれを「座小屋」と定義して分類しており、この名称は当社の呼び方から採っています。

他に「座小屋」と呼ぶ例は私の知る限りではありませんが、「宮座」が神事で用いる「小屋」という意味でその機能をよく表した呼び名であり、当サイトではこの語を採用して分類したいと考えています。

 

当社の「座小屋」を一つずつ紹介していきます。

こちらは北側の「座小屋」。上庄地区の氏子が使用する座小屋です。

トタン屋根の切妻造で床が無く、北側に二カ所の出入口のある簡素な建物です。

 

西側の「座小屋」。椣原地区の氏子が使用する座小屋です。

トタン屋根の切妻造で、当社の座小屋の中で唯一床が張られています。入口は南側に一ヶ所。

床を張っているのは中世に荘園の役人を接待したためと言われています。ただしこの建物が荘園時代にまで遡るとは到底考えにくく、古式を踏襲したものでしょう。

建物自体も非常に簡素なもので、床が張られているとはいえ役人を接待する建物としては粗末なものと言わざるを得ません。恐らく時代と共に簡素化されたものと思われます。

 

南側の「座小屋」。西向地区の氏子が使用する座小屋です。

北側と同じくトタン屋根の切妻造で床がありません。入口は東側に一ヶ所。

この座小屋は他の座小屋よりも壁が高く張られていることが特徴です。

なお、内部はタマネギが乾燥されていました。

 

当社の社殿および「座小屋」を遠くから眺めた様子。

社殿と座小屋で囲われた空間が形成されており、その空間がまさに「祭の場」なのでしょう。

座小屋は簡素な建物ながら、単なる詰所としてのみならず、「場を限る」という意味でも当社の祭祀や信仰の在り方において極めて重要なものと言えそうです。

 

境内社の様子

北側の座小屋の左側(西側)に境内社が南向きに鎮座しています。社名・祭神は不明。

陶器製(?)の小祠が春日造風の覆屋に納められており、何故か埴輪のミニチュアが配置されています。

 

また参道途中の左側(北側)に元禄十五年(1702年)に寄進されたという鳥居が建ち、その奥に「春日神社」が南向きに鎮座しています。

社殿は春日見世棚造で朱の施されたもの。

本社もかつて「春日大明神」と呼ばれ、現在も春日神を構成する天児屋根命を祀っていますが、当社との関係は不明です。

 

春日神社の前に配置されている狛犬。砂岩製でそこそこ古そうなものです。境内社としては厚遇されている印象。

 

タマ姫
なんか社殿の前に建物がいっぱいあるね!珍しい!
これらは「座小屋」と呼ばれているわ。神事の際に氏子の詰所として使われてるみたいね。奈良県や京都府南部にかけては同様のものがよく見られるのよ。
トヨ姫

 

由緒

案内板

紀氏神社 平群町上庄

案内板

紀氏神社由来記

案内板

平群坐紀氏神社

 

地図

奈良県生駒郡平群町上庄5丁目

 

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