社号 | 葛木御縣神社 |
読み | かつらぎみあがた |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 奈良県葛城市葛木 |
旧国郡 | 大和国葛下郡桑海村 |
御祭神 | 劔根命、天津日高日子番能瓊瓊杵命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月13日 |
葛木御縣神社の概要
奈良県葛城市葛木に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳には大社に列せられ、古くは有力な神社だったようです。
当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、かつて大和国にあった六ヶ所の朝廷の直轄地「倭の六県」(高市県、葛木県、十市県、志貴県、山辺県、曽布県)の一つ「葛木県」の守護神として祀られたものと考えられます。
これら「倭の六県」は『延喜式』祝詞に見え、蔬菜類を栽培し献上するための農園のような地だったことがわかります。
現在の御祭神は「劔根命」「天津日高日子番能瓊瓊杵命」の二柱です。元々は天津日高日子番能瓊瓊杵命のみを祀っていましたが、明治五年(1872年)に劔根命を新たに祭神に加えました。
『日本書紀』神武天皇二年二月の条に神武天皇が忠臣に恩賞を与えており、その中に「剣根」という者を「葛城国造」としたことが見えています。
また『新撰姓氏録』には次の氏族が登載されています。
- 大和国神別「葛木忌寸」(高御魂命の五世孫、剣根命の後)
- 河内国神別「葛木直」(高御魂命の五世孫、剣根命の後)
- 和泉国神別「荒田直」(高御魂命の五世孫、剣根命の後)
この内、大和国に居住した「葛木忌寸」が葛木県を管理し当社を奉斎したことが考えられます。
当社はかつて現在地の東方100mほど、西光寺という寺院(現在は廃寺)の境内に鎮座していましたが、慶長六年(1601年)に当地の領主となった桑山氏が自身の産土神である尾張国海東郡の「諸鍬神社」(愛知県愛西市諸桑町郷城に鎮座)を三才山(伝・飯豊天皇陵)の上に勧請した際、当社を含む近隣十ヶ村の神社を同社に遷座し末社としました。
その後、幕末に御陵整理のため飯豊天皇陵とされる三才山の明け渡しを要求され、諸鍬神社は辨之庄村へ遷座しましたが、当社のみは式内社としての由緒を重視し旧地に戻すことになりました。しかし旧地は既に人家が密集していたため西へ100mほどの現在地に遷座されました。
遷座先である現在地も今は人家で囲われており、入り組んだわかりにくい場所にあるため目立たない神社となっています。
しかし当地の旧村名である「桑海(くわのみ)村」が明治年間に正道寺村と合併した際に「葛木村」と称し現在も大字としてなっているのは当社の存在によるものであり、葛上郡の鴨都波神社や高鴨神社と共に葛城における中心の一つだったことを思わせます。
境内の様子
当社の境内への道はわかりにくく、集落の細い道からさらに細い道が分岐したところに社号標が建っています。
この地点から境内は見えないため、唯一の目印である社号標を見落とすと迷ってしまうことになるでしょう。
社号標から道を進むと左奥の人家裏にちょっとした空間があり、そこが当社境内です。
この空間の左奥(南西側)に鳥居、そして社殿が東向きに並んでいます。
樹木が乏しいため、人家に囲まれた狭い敷地の割には開放感のある空間です。
拝殿は桟瓦葺の平入切妻造。
拝殿後方はブロック塀で囲われており、見えにくいですが中に鳥居が建ち、その後方に銅板葺の一間社春日造の本殿が建っています。
現在の当社の社地は比較的新しいところですが、当社周辺は古い家屋も残っており、古い町並みも見られます。
地図