社号 | 河俣神社 |
読み | かわまた |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 奈良県橿原市雲梯町 |
旧国郡 | 大和国高市郡雲梯村 |
御祭神 | 鴨八重事代主神 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月10日 |
河俣神社の概要
奈良県橿原市雲梯町に鎮座する神社で、式内社「高市御縣坐鴨事代主神社」は当社に比定されています。
一方で式内社「川俣神社」を当社に比定する説もあります。
いずれにしても『延喜式』神名帳には大社に列せられていることから古くは有力な神社だったようです。
『延喜式』祝詞に所載されている『出雲国造神賀詞』(新任の出雲国造が天皇に対して奏上する祝詞)によれば、
- 大穴持命が自身の和魂を倭大物主櫛厳玉命として大御和の神奈備(現在の「大神神社」/ 桜井市三輪に鎮座)に、
- 命の御子である阿遅須伎高孫根命の御魂を葛木の鴨の神奈備(現在の「高鴨神社」 / 御所市鴨神に鎮座)に、
- 事代主命の御魂を宇奈提(式内社「高市御縣坐鴨事代主神社」 / 当社に比定)に、
- 賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備(式内社「飛鳥坐神社」の前身)に、
それぞれ鎮座させて皇孫の守護神としたとあります。
事代主命の御魂を鎮座させた「宇奈提」なる地名はすなわち当地「雲梯(ウナテ)」です。『倭名類聚抄』にも大和国高市郡に「雲梯郷」が記載されており、その遺称となっています。
この宇奈提(雲梯)の地に事代主命の御魂を鎮座させたのが当社であるとされています。
また『日本書紀』天武天皇元年(673年)七月二十三日の条、壬申の乱においても当社の神が登場しています。
『日本書紀』(大意)
大海人皇子(後の天武天皇)軍が金綱井(現在地は不詳。橿原市付近か)に集結したとき、高市軍の大領の高市県主許梅(タケチノアガタヌシコメ)という人物に神憑りし、次のように言った。
「我は高市社にいる事代主神である。また牟狭社にいる生霊神である」
「神武天皇の陵に馬や種々の兵器を奉れ」
「我は皇御孫命(大海人皇子)の前後に立ち不破までお送りして帰った。今も官軍の中に立っている」
「西の道から軍勢がやってくるので用心せよ」
この言葉の通りに陵に馬と武器を祀り、また高市・牟狭の二社に幣を捧げた。その後、敵軍の壱伎史韓国が大坂から来たので、時の人は「二社の神のお教えになることはこれであった」と言った。
(略 / この間に村屋神からも託宣があり助言を受ける)
戦の後、将軍らは託宣のあった三神(事代主神、身狭社、村屋神)の言葉を奏上し、天皇は勅して三神の位階を引き上げて祀った。
このように、壬申の乱において、高市社(式内社「高市御縣坐鴨事代主神社」/ 現在の当社)、牟狭社(「牟佐坐神社」/ 橿原市見瀬町に鎮座)、そして村屋神(「村屋坐彌冨都比賣神社」か / 田原本町蔵堂に鎮座)の三社の神から託宣があり、その功績が認められ、神に神階が授けられています。これは神階が授けられた初の記録ともなっています。
当社の創建は不詳ながら、このように当社は高市郡に鎮座するコトシロヌシとして非常に古くから祭祀されていたことが『日本書紀』などの記録からもわかります。
ただ江戸時代中期の地誌『大和志』はどういうわけか式内社「高市御縣坐鴨事代主神社」を「高殿村に在り。今大宮と称す。又の名、鴨公森。」としており、当社でない別の神社に比定しています。
高殿村の大宮・鴨公森とは現在の藤原宮跡にある「鴨公神社跡」のことと思われ、恐らく「鴨公(カモキミ)」を地祇系賀茂氏の地、もしくはその祖たるコトシロヌシのことと考えたのでしょう。
それには一定の説得力があるものの、上述の『出雲国造神賀詞』にある通り、高市郡の事代主命は「宇奈提」なる地に鎮座するのであり、その地は当地であるとするのが極めて妥当です。このため現在「鴨公神社」は式内社とは一般に認められていません。
また室町時代の文書『和州五郡神社神名帳大略注解』(通称『五郡神社記』)には、事代主命が高皇産霊尊から八万四千の邪鬼を統率する大将軍となって皇孫を守護せよと命じられ、雲梯(クモノカケハシ)を降りて高市県に至り、そこを雲梯(ウナテ)と呼んで後にそこに霊畤(祭祀場)を立てた、とあります。
記紀神話を中世に解釈し直した中世神話的な要素が含まれると思われるものの、当社の創建伝承の古い例として大いに参考にすべきでしょう。
なお当社の御祭神「鴨八重事代主神」の位置付けについては非常に複雑なので、詳しくは御所市宮前町に鎮座する「鴨都波神社」の記事に譲ります。
一方で当社は上述のように式内社「川俣神社」に比定する説もあります。
当社は社名が「河俣神社」であることからも「川俣神社」の比定には説得力があるものの、一般には曽我川を渡って左岸側、当社の南西200mほどの地に鎮座する「木葉神社」に比定する説が有力となっています。
かつては雲梯の南方で曽我川から古川という川が分流し、集落の西方を流れていたともされ、この分流を「川俣」と称したのでしょう。
その意味では川の分流した間にある「木葉神社」こそが「川俣神社」に相応しいと言えます。一方で当社が「河俣神社」を名乗ってる理由ははっきりしません。
いずれにせよこの雲梯の地には非常に古くからコトシロヌシを祀っており、それが壬申の乱の戦局にも影響を及ぼし得るほどの力を持っていたことになります。
現在の当社はほんの小さな神社となっており、『大和志』に当社への比定がなされていない点から江戸時代には既にコトシロヌシを祀ることが忘れられていた可能性すらもありますが、古くは非常に重要な地であり、史上初めて神階の授けられた神が祀られている点でも神道史の観点から重要と言えましょう。
境内の様子
当社は雲梯地区の東側、曽我川の右岸側の川沿いに鎮座しています。境内は川に沿って南北に伸びており、堤防のような立地となっています。
境内入口は戎智橋の東詰にあり、南方向へ参道が伸びています。
参道を進むと神明鳥居の一の鳥居が北向きに建っています。
一の鳥居からさらに進むと玉垣で囲われた区画となり、そこから先は本格的な神域となります。
この玉垣の先に神明鳥居の二の鳥居が北向きに建っています。
二の鳥居の右側(西側)の傍らに、『万葉集』巻12-3100の「思はぬを 思ふと言はば真鳥住む 卯名手の社の神し知らさむ」の歌が刻まれた万葉歌碑が建っています。
卯名手(ウナテ)の社(モリ)とは当社のことで、万葉集の時代にも当社の神威が著名だったことが窺われます。
石碑
二の鳥居をくぐった様子。鬱蒼とした社叢となっており、コンクリート敷の参道が南へまっすぐ社殿まで伸びています。
参道途中の左側(東側)に手水舎が建っています。
参道の奥に社殿が北向きに並んでいます。真北を向く神社はやや珍しい例と言えます。
拝殿は本瓦葺・平入切妻造に妻入入母屋造の向拝の付いたもの。
拝殿前に配置されている狛犬。砂岩製ですが造形がくっきりしており、あまり古めかしさは感じられません。
拝殿後方に本殿が建っていますが、塀で完全に囲われており全く見ることができません。拝殿越しに中門が建っているのが見えるのみです。
手持ちの資料によれば本殿は銅板葺の流造のようです。
当社境内を東側から見た様子。こんもりとした森に覆われています。
地図
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