社号 | 劔主神社 |
読み | つるぎぬし |
通称 | |
旧呼称 | 天照皇太神宮 等 |
鎮座地 | 奈良県宇陀市大宇陀半阪 |
旧国郡 | 大和国宇陀郡半坂村 |
御祭神 | 健速須佐男之命、経津主之大神、葦原醜男之大神 |
社格 | 式内社 |
例祭 | 10月26日 |
式内社
劔主神社の概要
奈良県宇陀市大宇陀半阪に鎮座する神社です。宮奥地区に鎮座する「剣主神社」、下宮奥地区に鎮座する「剣主神社」と共に式内社「劔主神社」の論社となっています。
当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、式内社「劔主神社」を勧請したものとも考えられているようです。
当社は江戸時代以前は「天照皇太神宮」と称し天照大神を祀っていました。
しかし現在の御祭神は「健速須佐男之命」「経津主之大神」「葦原醜男之大神」の三柱であり、どういうわけか天照大神は祀っていないようです。
当社の勧請元とされる式内社「劔主神社」が宮奥地区もしくは下宮奥地区の「剣主神社」なのか、それともまた別にあったのかは定かではありませんが、もし仮にそのどちらかであったとしたら、江戸時代以前の御祭神から推して下宮奥地区の「剣主神社」からの勧請ということになりそうです。
しかし当社についての伝承は乏しく、当社の来歴は全くの不明です。
なお、当社の近隣にある半坂峠は『日本書紀』神武天皇即位前紀に見える「男坂」とされています。男坂(ヲサカ)が音読化してナンサカに、さらに転訛してハンサカになった、ということのようです。
境内の様子
当社は半阪地区の西方の集落の外れ、ちょっとした丘の上に鎮座しています。
丘の下に鳥居が東向きに建っており、その奥に石段が伸びています。
この石段の突き当りの左側(南側)に簡素な手水舎が建っています。
突き当りで石段は右へ折れ、さらに石段が続きます。
この石段の上に社殿の建つ空間が左側に広がっており、参道はZ字形に進むことになります。
石段を上って左側(西側)に社殿が東向きに並んでいます。
当社に拝殿は無く、石垣の上に拝所(中門)及び瑞垣が設けられ、その奥に妻入入母屋造の覆屋に納められて本殿が建っています。
社殿前に配置されている狛犬。花崗岩製。そう古くはなさそうです。
拝所の後方、覆屋に納められている本殿。
板葺の一間社春日造です。
当社周辺の様子。標高の高い山間の地で、小さな谷間に僅かな田圃と小規模な集落のある長閑な風景です。
男坂伝称地(半坂峠)
『日本書紀』神武天皇即位前紀によれば、神武天皇が宇陀の高倉山に登って周囲を見渡したところ、賊軍が女坂に女軍を、男坂に男軍を置き、墨坂におこし炭を置いていたとあります。
当社の北方に半阪から桜井市粟原へ抜ける半坂峠があり、この坂が上述の「男坂」であるとされています。
ちなみに女坂は南方にある大峠、墨坂は萩原地区に鎮座する「墨坂神社」の辺りであるとされています。
半阪地区の北側に西へと伸びる小径があり、「👈男坂傳稱地道」と刻まれた道標に従い進んでいきます。
やや荒れた道となっており、道標が無ければ迷ってしまいそうな道です。
この道を進み杉林の中へと潜って行くと、最高所となる地点に「男坂傳稱地」と刻まれた石碑と灯籠が建っています。
石碑は昭和十五年(1940年)に建てられたもので、紀元2600年祭の一環で神武天皇聖蹟と認定され顕彰されたものです。
この先は下り坂となっており、桜井市粟原の集落まで続いています。
半阪側は既に標高が高いのに対し粟原側は標高が低いため、粟原側にのみ坂道が続く所謂「片峠」になっています。
地図
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