社号 | 吉野山口神社・高鉾神社 |
読み | よしのやまぐち・たかほこ |
通称 | |
旧呼称 | 天満宮、竜門大宮 等 |
鎮座地 | 奈良県吉野郡吉野町山口 |
旧国郡 | 大和国吉野郡山口村 |
御祭神 | 吉野水分神社:大山祇神 高鉾神社:高皇産霊神 |
社格 | 吉野水分神社:式内社、旧村社 高鉾神社:式内社、旧郷社 |
例祭 | 吉野水分神社:12月7日 高鉾神社:4月22日 |
吉野山口神社・高鉾神社の概要
奈良県吉野郡吉野町山口に鎮座する神社です。「吉野山口神社」と「高鉾神社」が同じ境内に鎮座しており、共に式内社です。
吉野山口神社
吉野山口神社は『延喜式』神名帳には大社に列せられ、古くは有力な神社だったようです。
『延喜式』神名帳の大和国・山城国には「○○山口(坐)神社」と称する神社が15社記載されており、その中の一つが当社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、他の「○○山口(坐)神社」と同様、水源となる山間の地に山の神を祀り国家的に管理・祭祀したものと思われます。
「○○山口(坐)神社」は全て『延喜式』臨時祭の祈雨神祭八十五座に加えられており、このことからも「○○山口(坐)神社」が水を司る神として朝廷から重視されたことが窺えます。
また当社は含まれていませんが、『延喜式』祝詞の祈年祭に飛鳥、石村、忍坂、長谷、畝火、耳無の各山口神社はその山の木材を伐り出し宮殿とした旨が記されており、「○○山口(坐)神社」は用材の産地として樹木を守護する神でもあったことが考えられます。
当地は竜門岳の南麓にあたり、竜門岳を水源の地、木材の産地としてこれを守護する為に当社が創建されたことが考えられます。
現在は他の多くの「○○(坐)山口神社」と同様「大山祇神」を祀っていますが、江戸時代には「天満宮」と称し菅原道真公を祀っていました。
案内板には天候を司る神である故に天神と称えられ、あたかも菅公を祀るかのように信じられたとありますが、山の神である大山祇神を「天神」とするのはやや無理のある解釈でしょう。
他の多くの式内社と同様、後世のある時期に天神信仰が高まり当社に菅原道真公が勧請され、いつしかこちらが本社として祀られるようになったと考えるのが自然であると思われます。
とはいえ当地は地名に「山口」の名が残っており、当社が式内社であることに異論は無さそうです。
高鉾神社
高鉾神社の創建は詳らかでありませんが、当初は北方に聳える竜門岳の山頂に鎮座していたと伝えられています。
竜門岳を神体山とする山岳信仰の神社だったことが考えられますが、社名から推して山上の祭祀場において矛を御神体、或いは神籬として神を降臨させ祭祀を行っていたのかもしれません。
竜門岳はかなり早くからあの世に通じる神秘的な霊地とされたようで、例えば天平勝宝三年(751年)に完成した日本最古の漢詩集である『懐風藻』では葛野王の漢詩に竜門岳が仙境の地として描写されています。
その後七世紀後半には義淵僧正が竜門岳の中腹に「龍門寺」を創建し、龍門寺には大伴仙・安曇仙・久米仙の三人の仙人が住むと伝えられるなど、やはり俗世から離れた仙境であると考えられたようです。
龍門寺は中世に廃れますが、当社は存続していつの頃か吉野山口神社の境内に遷されました。現在は旧地である竜門岳の山頂には「嶽神社」の祠が鎮座し当社の元宮であるとしています。
現在の当社社殿の手前側に「文亀三年(1503年)」の紀年銘のある灯籠があり、この頃に遷座したのではないかとも言われています。
また現在地に遷座する前、正中年間(1324~1326年)頃に「タカホコヂ」と呼ばれる地(当社の北西側?稲荷社の祠があるらしい)に遷座したとも伝えられています。竜門岳への遥拝所、あるいは里宮的な位置付けだったのかもしれません。
このように当社は吉野山口神社の境内に遷座してきたと伝えられており、現に吉野山口神社の本殿が中央に建つのに対し当社は東側の境内奥に鎮座し、吉野山口神社が「主」であるのに対し当社は「従」といった印象です。
しかしどういうわけか近代社格制度では吉野山口神社は旧村社だったのに対し、当社は旧郷社と高い社格でした。これについての真相は不明ですが、当地においては当社の方が重要な神社だったのかもしれません。
当社の御祭神は「高皇産霊神」で、「神皇産霊神」を配祀しています。高皇産霊神は高木神とも称し、社名の「高桙」を「タカキ」と読む説もあるようです。
境内の様子
当社は竜門岳の南麓にあたる地に鎮座しています。
参道が長く伸びており、その入口に鳥居が南西向きに建っています。
鳥居をくぐった様子。境内は杉の巨樹が多く、鬱蒼とした社叢に覆われています。
参道途中の左側(北西側)に手水舎が建っています。
箱型の手水鉢は延宝七年(1679年)に奉納されたもので、紀年銘と共に当社の旧称である「天満宮」と豪快に刻まれています。
案内板
手水鉢
さらに参道を進むと広い空間に出、左側(北西側)に社務所があり、正面奥には社殿が南西向きに並んでいます。
拝殿は基壇上に建ち、桟瓦葺の平入切妻造で、中央上部にに銅板葺の唐破風が段違い屋根として設けられています。
中央に扉があり、階も設けられていることから床が張られていると思われますが、構造的には割拝殿に近いものです。
拝殿前に配置されている狛犬。砂岩製で古めかしさの感じられるものです。
同じく拝殿前に配置されている石灯籠。紀州藩主が江戸への参勤交代の際には必ず当社へ参拝したことから、紀州藩主だった徳川吉宗公が将軍となった正徳六年(1716年)に寄進したものです。
左側の灯籠には「天満宮御寶前」、右側の灯籠には「高鉾社御寶前」と刻まれており、当社が対等の立場として鎮座していることを示しています。
案内板
灯篭(徳川吉宗公寄進)
拝殿後方の基壇上に朱鳥居が建ち、瑞垣で囲われて吉野山口神社の本殿が建っています。
本殿は檜皮葺の一間社隅木入春日造で、朱をはじめとする精緻な極彩色が施され、壁や脇障子、さらに扉にまで細かく絵が描かれています。
豪華絢爛でかなり手の込んだ本殿であると言えましょう。
そして本社本殿の右奥(東側)には同様に基壇上に鳥居が建ち、瑞垣で囲われて高鉾神社の本殿が建っています。
高鉾神社の本殿も同様に檜皮葺の一間社隅木入春日造で、朱をはじめとする精緻な極彩色、そして壁などの各所に細かな絵が施されています。
吉野山口神社の本殿と瓜二つですが、こちらの方が古いようで文化財指定はなされていないものの室町時代の形式を留めたものとなっています。
高鉾神社の手前側に配置されている灯籠。簡素な角柱型の灯籠で、文亀三年(1503年)に奉納されたもの。吉野地方でも最古級の灯籠です。
高鉾神社が当地へ遷座した際に奉納されたものとも言われています。
案内板
灯篭(境内最古)
吉野山口神社と高鉾神社の位置関係。写真の左側が吉野山口神社で、右の奥側に見えるのが高鉾神社です。
この配置を見る限りでは前者が「主」、後者が「従」といった印象ですが、灯籠などでは両社は対等の扱いで、近代社格制度ではむしろ後者の方が高かったので不思議に思われます。
翻って、吉野山口神社の本殿の左側(北西側)の石段上には「嶽神社」「意賀美神社」が南西向きに鎮座しています。
黒い神明鳥居と瑞垣に囲われて、銅板葺の春日見世棚造の社殿が建っています。
嶽神社と意賀美神社は相殿なのか同じ神社なのかはっきりしませんが、嶽神社は吉野山口神社の旧地である竜門岳の山上に現在鎮座している神社で、その里宮、遥拝所的なものとして祀られているのかもしれません。
境内の左側(北西側)にちょっとした空間があり、そこに境内社の「牛滝社」が南西向きに鎮座しています。社殿は銅板葺の春日見世棚造。
この空間は別当寺だった「本地堂」があった場所で、明治の神仏分離により廃寺となりました。
案内板
本地堂跡
- 当社境内には杉の巨樹が多く、御神木として注連縄の掛けられているものもあります。当地が古くからの神域だったことが窺えます。
当社周辺、特に西方の佐々羅地区付近は古い家屋が多く、江戸時代さながらの古い町並みがよく残っています。
当地は紀伊と伊勢を結ぶ高見越えの伊勢街道にあり、また「竜門郷」と呼ばれた周辺一帯の地域の中心地でもありました。
由緒
案内板
高鉾神社
地図