社号 | 穴師坐兵主神社 / 大兵主神社 |
読み | あなしにますひょうず / だいひょうず |
通称 | |
旧呼称 | 穴師社 等 |
鎮座地 | 奈良県桜井市穴師 |
旧国郡 | 大和国式上郡穴師村 |
御祭神 | 兵主神、大兵主神、若御魂神 |
社格 | 式内社、旧県社 |
例祭 | 4月8日、10月21日 |
穴師坐兵主神社の概要
奈良県桜井市穴師に鎮座する神社です。
式内社である「穴師坐兵主神社」「巻向坐若御魂神社」「穴師大兵主神社」の三社を合祀した神社で、『延喜式』神名帳には「穴師坐兵主神社」は名神大社、「卷向坐若御魂神社」は大社に列せられ、古くは極めて有力な神社でした。
当地は本来は「穴師大兵主神社」の社地であり、後述のように応仁の乱以降に「穴師坐兵主神社」と「巻向坐若御魂神社」が合祀されたと伝えられています。
穴師坐兵主神社(旧)
当社は元々は「斎槻岳(弓月岳)」に鎮座していたと伝えられています。この山の具体的な場所は不明で、竜王山・穴師山・巻向山などが候補地となっており、一説には巻向山にある峰の一つだともされています。
社伝によれば、崇神天皇六十年または垂仁天皇二年に、倭姫命が纏向穴師山に天皇の御膳の守護神として祀ったことに始まると伝えられています。
また別伝に景行天皇が兵主大神を祀ったとする説も伝えられています。
当社の御祭神は「兵主神」。これは新泉地区に鎮座する「大和神社」の文書『大倭神社注進状』によれば「御食津神」のことで、日矛を御神体とするとあります。
一般に兵主神は後述のように兵器の神として信仰されていましたが、当社では社伝や祭神からしても食物神として信仰されてきたようです。しかしながら日矛を御神体とする点に兵器の神としての名残が見られると考えられます。
『大倭神社注進状』は平安時代末期の文書だとされていますが江戸時代の偽書であるとする説もあり、信憑性に問題があるものの、元々は兵器の神として祀られた兵主神が後世に食物を司る神へと変化していったことを示していると考えられそうです。
当社は本来は山の上に鎮座していたことから、春に山から里へ下りて豊穣をもたらし、収穫を終えた秋に山へ帰るいわゆる「田の神」=「山の神」へと神格が変わっていったのかもしれません。
なお、中世以降は「穴師大兵主神社」を「穴師下社」と呼んだのに対し、山上に鎮座していた当社は「穴師上社」とも呼ばれるようになりました。
巻向坐若御魂神社
当社は元々は巻向山の「都谷」と呼ばれる地に鎮座していたと伝えられますが、その具体的な地は不明。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
御祭神は「若御魂神」。この神の神格は諸説ありますが、一説に記紀における「ワクムスビ」(『古事記』:和久産巣日神 / 『日本書紀』:稚産霊)とされ、この神は『古事記』ではトヨウケヒメを生んでいます。
トヨウケヒメは食物神であることから穴師坐兵主神社の御祭神である「御食津神」と同体であるとされることもあり、そうなれば当社と穴師坐兵主神社は父子の関係にあたることになります。
現にそのように解説するものもありますが、穴師坐兵主神社は元々は兵器の神を祀っていたと考えられ、本来は両社はそのような父子関係ではなかったと思われます。
穴師坐兵主神社と穴師大兵主神社が上社・下社と呼ばれて密接な関係があったのに対し、当社は特にその二社と関係する情報は無く、後にその二社と合祀したのは恐らく偶々だったのでしょう。
穴師大兵主神社
現在の「穴師坐兵主神社」の境内は元々は当社の地です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。しかしながら社名の類似性から推して式内社「穴師坐兵主神社」と強い関連性を持って創建されたことが考えられます。
御祭神は「大兵主神」。『大倭神社注進状』によればこれは「天鈿女命」のことで、鈴の矛を御神体とするとあります。
こちらも本来は兵器の神を祀っていたと考えられ、やはり矛を御神体とする点にその名残が見られると考えられます。
一方で天鈿女命を祀る必然性は薄く、どういう経緯で天鈿女命を祀ると信仰されるようになったのかを明らかにするのは困難です。或いは兵器の神に舞踊を奉納する巫女を神格化したのかもしれません。
先述のように、中世以降は山上に鎮座していた「穴師坐兵主神社」を「穴師上社」と呼んだのに対し当社は「穴師下社」と呼ばれ、両社は対の神社であると認識されていたことが窺えます。
或いはこの二社は奥宮と里宮の関係にあったのかもしれません。
穴師坐兵主神社(新)
時代が下って応仁の乱の際、斎槻岳に鎮座していた「穴師坐兵主神社」(穴師上社)が兵火に罹って焼失したため、麓に鎮座していた「穴師大兵主神社」(穴師下社)へ御神体が合祀されました。
「巻向坐若御魂神社」も応仁の乱などの戦乱で荒廃したため、同じころに「穴師大兵主神社」へと合祀されたようです。
それ以降当社は「穴師社」「穴師大明神」と称し、明治以降は「穴師坐兵主神社」または「大兵主神社」を社号とし、社殿三棟を再建して中殿に「兵主神」を、右殿に「若御魂神」を、左殿に「大兵主神」を祀って現在に至っています。
元々当地は「穴師大兵主神社」の地なのに「穴師坐兵主神社」を社号とし、その祭神を中殿に祀っているのは、恐らく式内社「穴師坐兵主神社」が最も格の高い名神大社だったことによるのでしょう。
「穴師」について
『延喜式』神名帳には「穴師神社」と名乗る神社が大和国に二社(当社)、和泉国に一社、伊勢国に一社あり、さらに若狭国の「阿奈志神社」を含めて計五社が記載されています。
柳田国男は『風位考』にて九州から瀬戸内、関東にかけてアナジ・アナゼとは北西もしくは南東の風を指すとし、とりわけ当地の穴師の山(巻向山か?)は風の神を祀ったもので、穴師の山を風の源と信仰していたのではと考察しています。
一方で穴師とは穴を掘って鉄鉱石などの金属を採取する人々を指したとする説があり、それを証するように当地付近には弥生時代以降の製鉄の遺構などが見られるようです。
さらにこの両論を併せ、金属を採掘し鍛冶を行っていた人々が当地に吹く風を利用してタタラの火を熾していたのではとする説もあります。
その他、製鉄の際に鉱毒にやられて脚に障害が出る「痛脚」であるとする説もあり、いずれとも決着しませんが、柳田翁以降の風の名とする古典的な説に替わり、近年は金属関係の名であるとする説が唱えられる傾向にあります。
「兵主神」について
『延喜式』神名帳には「兵主神社」と名乗る神社が大和国に二社(当社)、和泉国に一社、三河国に一社、近江国に二社、丹波国に一社、但馬国に七社、因幡国に二社、播磨国に二社、壱岐島に一社の計十九社が記載されています。
兵主神とは中国の神である「蚩尤(シユウ)」と同じとされ、その姿は半獣半人で、獣の身体で頭に角が生えているとも、また人の身体で牛の頭と鳥の蹄を持つとも言われており、石と砂を食べると言われています。
石と砂を食べる様子はまさしく鉄鉱石や砂鉄を原料として鉄製品を製造する様子を神格化したもので、蚩尤は製鉄の神であり、また鉄によって製造された兵器の神ともされました。
『延喜式』神名帳に記載される各「兵主神社」の神も兵器の神として祀られたことが考えられ、これが「蚩尤」と同一かどうかは検討の余地があるものの、或いは渡来系の人々のもたらした新しい製鉄技術に伴い兵主神(蚩尤)の信仰がもたらされ祀られた可能性は考えられるでしょう。
『延喜式』神名帳では但馬国に特に多くの「兵主神社」が記載されていることが注目されますが、『日本書紀』及び『播磨国風土記』などの史料では新羅の王子である天日槍が但馬国に至って鎮まったことが記されており、彼らが製鉄技術を伝えたことに関係していることが推測されます。
当地にしても上記で見たように「穴師」に鎮座しており、これが風を利用した鍛冶に因むのか、金属を採取した人々に因むのかは定かではありませんが、「兵主」と「穴師」は深い関わりにある可能性は大いに考えられましょう。
和泉国においても『延喜式』神名帳では「泉穴師神社」の次に「兵主神社」が記載されており、両社は4km程しか離れておらず、確証はありませんがこの二社も互いに関わりがあったのかもしれません。
いずれにせよ大和国の式内社「穴師坐兵主神社」及び「穴師大兵主神社」は本来は金属の神・兵器の神を祀っていたと考えられ、いつの頃か「山の神」「田の神」としての農耕神へと神格を変えていったのでしょう。
境内の様子
当社の一の鳥居は当社境内の西方約1.5km、巻向駅のすぐ北東の道沿いに西向きに建っています。
灯籠などが倒壊しているようで、一の鳥居付近は立入禁止となっていました。
一の鳥居の傍らには「正一位穴師大明神」と刻まれた社号標が建っています。いつの建立かは不明ですが、大明神の号が使用されていることから江戸時代のものと思われ、一般に社号標が建てられるようになったのは明治以降であることから数少ない江戸時代の社号標として貴重なものでしょう。
一の鳥居から東方へ当社境内へ通じる道が伸びています。
途中、垂仁天皇の皇居である纏向珠城宮や景行天皇の皇居である纏向日代宮に比定される地があり、真偽は不明ながら当地一帯が三世紀~四世紀頃の大王の拠点だったことが窺えます。
さらに道を進んでいくと境内の西方約250mのところで二の鳥居が西向きに建っています。
二の鳥居をくぐってさらにしばらく東へ進んでいくと、大きな杉や楓などの樹木に覆われた森があり、その中に参道が伸びて入口に一対の灯籠が建っています。
ここが当社の境内入口となります。
参道の様子。森の奥へと参道が伸びています。
社叢は様々な樹種がありますが楓も多く、秋には赤く色づき紅葉を楽しめます。
参道途中、左側(北側)に手水舎が建っています。
都合上、先に参道沿いの境内社を紹介します。
手水舎の右側(東側)に隣接して「祓社」が南向きに鎮座。社殿は銅板葺の一間社春日造。
奈良県の大規模な神社では本社参拝前にまず祓社・祓戸社に参拝して穢れを祓い身を清める習わしが見られ、当社でも恐らくそうなのでしょう。
祓社の右側(東側)に隣接して境内社が南側に鎮座しています。こちらは社名・祭神は不明。
社殿はやや珍しい単純な妻入の切妻造となっています。
参道を進んでいくと広い空間に至り、この左側(北側)の石段上、玉垣奥の土地の高くなった空間に社殿が南向きに並んでいます。
石段正面に建つ拝殿は桟瓦葺の平入入母屋造で唐破風の向拝の付いたもの。
桁行七間の横に長い優美な建築です。
拝殿前に配置されている狛犬。砂岩製の古めかしいもの。
拝殿後方の石垣上、透塀に囲まれて三棟の本殿が並んでいます。見えにくいものの本殿はいずれも銅板葺の一間社流造で千鳥破風と軒唐破風の付いたもの。
中殿に穴師坐兵主神社の「兵主神」を、右殿に巻向坐若御魂神社の「若御魂神」を、左殿に穴師大兵主神社の「大兵主神」を祀っています。
あまり知られていませんが本社社殿付近は特に紅葉が美しく、秋にはとても美しい光景となります。まさに隠れた紅葉の名所と言えましょう。
ちなみに当社の紅葉はやや遅く、奈良公園などよりも遅めに見頃を迎える傾向にあります。
境内東側の境内社
本社拝殿の右側(東側)の森の中にいくつかの境内社が鎮座しています。
この森の入口に「須佐之男社」が南向きに鎮座しています。
社殿は銅板葺の大社造で、境内社として大社造が採用されているのは(少なくとも畿内では)かなり珍しいものです。
この森の奥の左側(北側)の斜面上に、立ち入ることはできませんが三社の境内社が南向きに鎮座しています。
が、最も左側(西側)の境内社は完全に朽ち果て倒壊しており、基壇と残骸のみがある状態となってしまっています。
残る二社はいずれも銅板葺の春日見世棚造。いずれも社名・祭神は不明。
その他、本社本殿右側にある塀の中にも境内社が鎮座していますが立ち入ることができず詳細不明。
境内南側の境内社など
境内の南側、本社社殿の向かいとなる森の中にも境内社が鎮座しています。
この森の入口となる石段を上ってすぐ右側(西側)に「天王社」が東向きに鎮座しています。
社殿は銅板葺の一間社春日造。
天王社の向かい側(東側)、石段の上に境内社が西向きに鎮座しています。社名・祭神は不明。
社殿は銅板葺の一間社春日造。社殿の東側と南側にのみ塀が設けられています。
本社本殿の左側(西側)に社務所が建っています。
かつてはこの空間に祖霊社などの境内社が鎮座していましたが、2018年参拝時にはなくなっていました。こちらも朽ちてしまったのでしょうか?
相撲神社
本社二の鳥居の少し手前側に「相撲発祥の地」と記した顔はめ看板があり、この右側(南側)一帯は広い平地となっています。
この一帯は「カタヤケシ」と呼ばれる小字のようで、この入口に鳥居が建っています。
この「カタヤケシ」の森の奥に「相撲神社」が西向きに鎮座しています。御祭神は「野見宿禰」。
社殿は銅板葺の春日見世棚造。
社伝によれば、垂仁天皇七年七月七日、このカタヤケシにおいて野見宿禰と当麻蹴速による相撲が行われたといい、これに因み創建されたのが当社です。
『日本書紀』によれば垂仁天皇七年七月の条に次のようにあります。
『日本書紀』(大意)
当麻邑に大層な力持ちがおり、その名を当麻蹶速という。その力の強さを誇って生死を問わず力比べをしたいと思っていたのを天皇が聞き及び、出雲国の力持ちである野見宿禰を召し寄せて当麻蹶速と角力(相撲)をさせたところ、互いに蹴り合い、当麻蹶速は脇骨を蹴り折られ、また腰を踏み折られ死んでしまった。故に当麻蹶速の地は野見宿禰に与えた。
このように当麻蹶速と野見宿禰が相撲をしたことが記されていますが、蹴り合いになっていることから現在の相撲とは随分とルールが異なっていたようです。
また記事中には相撲が行われた場所については言及がありません。カタヤケシが相撲の行われた場所とされるのも伝承に過ぎず、或いは兵主神=蚩尤が好んだという「角觝」(力比べ)が相撲に通じるとしてこのような伝承が生まれたのかもしれません。
案内板
国技発祥の地 天覧角力開祖 相撲神社
案内板
カタヤケシ由緒
上記伝承に関し、社殿の傍らには野見宿禰の描かれた石碑が建ち、またカタヤケシの一画には力士の像も桜井ライオンズクラブにより建立されています。
相撲神社の鎮座するカタラケシの森もカエデなどの落葉樹が多く、こちらも本社境内と同様、秋には紅葉を楽しむことができます。
御朱印
由緒
案内板
大兵主神社
地図