社号 | 大神神社 |
読み | おおみわ |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 奈良県桜井市粟殿 |
旧国郡 | 大和国式上郡粟殿村 |
御祭神 | 大物主命、天児屋根命、蔵王権現 |
社格 | 式内論社、旧村社 |
例祭 | 5月7日 |
大神神社の概要
奈良県桜井市粟殿に鎮座する神社です。式内社「桑内神社」の論社となっています。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
当地・粟殿(オオドノ)地区は江戸時代以前は天領(幕府領)の西粟殿と津藩領の東粟殿に分かれており、前者には「大物主神社」を、後者には「春日社」を祀っていたと言われています。明治四十二年(1909年)に春日社は大神神社(大物主神社)へと合祀されました。
このため当社の御祭神は「大物主命」「天児屋根命」とそれぞれの神社の神となっており、これに加えて「蔵王権現」も祀られています。
大物主神社について、三輪地区の「大神神社」に伝わる文書に「二ツ神などは三輪の大明神の御子の神である」旨の記述があり、これに因み元々は当地の西方500mほど、粟殿地区と上之庄地区の境界あたりの「二ツ神(フタツカミ)」と呼ばれる小字に鎮座していたとする説があります。
ただ、小字「二ツ神」には当社とは別に明治の初め頃まで「稲荷神社」が鎮座しており、現在は「殖栗神社」の境内に遷座しています。
式内社「桑内神社」について、物部系の史書『先代旧事本紀』に饒速日命の六世孫、「建麻利尼(タケマリネ)命」は「桑内連らの祖」とあり、この物部系もしくは尾張系の氏族「桑内氏」が祖神を祀ったとも考えられます。
この氏族は『新撰姓氏録』には見えませんが、『続日本紀』天平神護二年(766年)八月二十七日の条に左京の人である「桑内連乙虫女」ら三人が桑内朝臣の姓を賜ったことが見えています。
式内社「桑内神社」は長らく所在不明とされていました。恐らく最初に当社に比定したのは大正四年(1915年)刊行の『磯城郡誌』と思われ、その根拠は「桑内」を「オド」と読み、これが「粟殿(オオドノ)」に通じるとするものです。
しかしながら「桑内」を「オド」と読むのは無理があり、極めて苦しい説と言わざるを得ません。
また『延喜式』神名帳には「桑内神社」は二座とあるため、旧地である小字「二ツ神」とは桑内神社の二柱の神を祀ったものとする説もありますが、これも特に根拠があるわけでありません。
このように当社を式内社とするには論拠が極めて弱く、現状では式内社「桑内神社」は已然所在不明とするのが妥当かもしれません。
境内の様子
当社は粟殿(オオドノ)地区のやや西寄りの集落の中に鎮座しています。
粟殿地区(旧・粟殿村)は江戸時代には東西に分かれ、西側は天領(幕府領)、東側は津藩領となっていました。当社は西側の地となります。
当社境内は玉垣で囲われ、北側の入口に鳥居が北向きに建っています。
鳥居をくぐって左側(東側)に井戸および手水舎が設けられています。
境内は手狭で、鳥居をくぐった先の左側(東側)に窮屈そうに社殿が西向きに建っています。
拝殿は桟瓦葺の平入入母屋造。境内の狭さの割には桁行五間のやや大規模な建築です。
拝殿後方、塀に囲まれて本殿が建っていますが殆ど見ることはできません。
拝殿内から中門の後方に銅板葺・一間社流造の本殿が僅かに見えるのみ。
全く見えないものの、本殿の左右には境内社が鎮座しているようで、資料によれば「愛宕社」「金比羅社」「春日社」があるようです。
中門に掲げられている扁額には「蔵王権現 三輪大明神 春日大明神」と御祭神の名が揮毫されています。
拝殿の向かいには多数の石灯籠が並べられています。
境内の南東側には伊勢神宮への遥拝所が設けられています。
地図
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大神神社 (奈良県桜井市三輪)
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