社号 | 加夜奈留美命神社 |
読み | かやなるみのみこと |
通称 | |
旧呼称 | 葛神 等 |
鎮座地 | 奈良県高市郡明日香村栢森 |
旧国郡 | 大和国高市郡栢森村 |
御祭神 | 加夜奈留美命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 5月1日 |
式内社
加夜奈留美命神社の概要
奈良県高市郡明日香村栢森に鎮座する式内社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
当社について解説するにはまず飛鳥地区に鎮座する「飛鳥坐神社」について少し触れなければなりません。
『延喜式』祝詞に所載されている『出雲国造神賀詞』(新任の出雲国造が天皇に対して奏上する祝詞)によれば、
- 大穴持命が自身の和魂を倭大物主櫛厳玉命として大御和の神奈備(現在の「大神神社」/ 桜井市三輪に鎮座)に、
- 命の御子である阿遅須伎高孫根命の御魂を葛木の鴨の神奈備(現在の「高鴨神社」 / 御所市鴨神に鎮座)に、
- 事代主命の御魂を宇奈提(式内社「高市御縣坐鴨事代主神社」 / 橿原市雲梯町に鎮座の「河俣神社」に比定)に、
- 賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に、
それぞれ鎮座させて皇孫の守護神としたとあります。
ここに「賀夜奈流美命」なる神が登場しますが、この神を鎮座させたという「飛鳥の神奈備」とは「飛鳥坐神社」の旧地とされています。
このカヤナルミなる神は記紀などの史料に見えず、ただこの『出雲国造神賀詞』にのみ登場する神で、オオナムチの御子の一柱であることしかわかりません。
ただ物部系の史書である『先代旧事本紀』に、大己貴神が高津姫神を娶って一男一女を生み、子の「都味歯八重事代主神」は倭国高市郡の「高市社」に、また「甘南備飛鳥社」に鎮座していること、そしてその妹の「高照光姫大神命」は倭国葛木郡の「御歳神社」に鎮座していると記されています。
このことからカヤナルミはコトシロヌシの妹であるタカテルヒメと同一であるとする説があり、異論もあるもののカヤナルミは概ねコトシロヌシの妹神であるとされています。
(なお『先代旧事本紀』の「高市社」とは式内社「高市御縣坐鴨事代主神社」(橿原市雲梯町に鎮座の「河俣神社」に比定)、「甘南備飛鳥社」とは「飛鳥坐神社」の旧地、「御歳神社」とは御所市東持田の「葛木御歳神社」と考えられる。)
少なくとも、『出雲国造神賀詞』および『先代旧事本紀』から、飛鳥の神奈備にカヤナルミおよびコトシロヌシの二柱が祀られていたことがわかります。
そして平安時代の史書である『日本紀略』の天長六年(829年)三月の条に、賀美郷の甘南備山飛鳥社を神託により同郡同郷の鳥形山に遷すとあり、これが現在の「飛鳥坐神社」と考えられます。つまり「飛鳥坐神社」は元々は飛鳥の神奈備に鎮座していたのを現在地(鳥形山)に遷座したことになります。
上記のような経歴を辿ったのが史実であれば、カヤナルミは鳥形山へ遷座し「飛鳥坐神社」に祀られているはずです。
しかし『延喜式』神名帳には「飛鳥坐神社」とは別に「加夜奈留美命神社」を記載しており、また別にカヤナルミを祀る神社があったことになります。
これが如何なる理由によるものかは不明ですが、一説に「飛鳥坐神社」の遷座後、旧地にカヤナルミの神霊を留めたのが式内社「加夜奈留美命神社」であるとも言われています。
ただ「飛鳥坐神社」の旧地は江戸時代には不明になっており、その候補地は諸説あり(詳しくは「飛鳥坐神社」の記事を参照)、どこであったかを決定することはできません。
一方、江戸時代中期の地誌『大和志』は式内社「加夜奈留美命神社」を当時「葛神」と呼ばれていた神社に比定しており、これは当地の地名「栢森(かやもり)」がカヤナルミに通じることを根拠としているようです。
飛鳥川の上流の地であり、飛鳥地域の水源として神を祀ることに一定の合理性は見出せるものの、当社を式内社とするには根拠が弱いと言わざるを得ません。
「葛神」は龍幅寺の鎮守社だったようですが、明治十二年(1879年)に龍幅寺に隣接して式内社「加夜奈留美命神社」が復興し、これが現在の当社となっています。
しかしどういうわけか阪田地区に鎮座する「葛神社」、また当社からかなり北方に離れた「万葉展望台」(飛鳥坐神社の東方の山上にある)の東方の地が当社の旧地とする説があります。
明治年間に復興した神社に“旧地”があるのは不思議な話ですが、さらにそれが二ヶ所もあるのは全く謎です。「葛神」としての旧地なのか、それとも当社とは別に式内社「加夜奈留美命神社」を比定したものかも不明です。
時代を遡って室町時代の文書『和州五郡神社神名帳大略注解』(通称『五郡神社記』)によれば、式内社「加夜奈留美命神社」について次のように記しています。
- 「飛鳥坐神社」の南方にある。
- 「磐石神窟」と為し、「飛鳥山前神南備」はこれである。
- 社家の説によれば御祭神は「高照姫命」である。
具体的な場所は不明ながら、飛鳥坐神社の南方に「磐石神窟」と呼べるような地があり、これが飛鳥坐神社の旧地である「飛鳥の神奈備」である、ということなのでしょう。
飛鳥坐神社の南方には酒船石遺跡があり、或いはこれを指していたのかもしれません。実際、酒船石遺跡を飛鳥坐神社の旧地とする説があり、もしそうであるならば酒船石遺跡に式内社「加夜奈留美命神社」があった可能性もゼロではないでしょう。
式内社「瀧本神社」
一方、当社の前身である「葛神」は式内社「瀧本神社」であるとする説があります。
『五郡神社記』によれば、式内社「瀧本神社」について、
- 波多郷稲淵瀧瀬本にある(ただし細川の川上である)。
- 宮道君の相伝によれば、牟佐築田坐生雷公と波多瀧瀬坐生龍師は兄妹の如きである。
と記しています。
式内社「瀧本神社」については大正三年(1914年)刊行の『大和志料』ですら所在不明としており、当社とする説はかなり新しいものです。
『五郡神社記』に記される「瀧瀬本」なる地名は現在は見えませんが、当地で飛鳥川に合流する「細谷川」の上流側には「男淵」「女淵」と呼ばれる小さな滝があり、「細川」を細谷川のこととすれば当地付近に式内社「瀧本神社」が鎮座していた可能性が浮上することになります。
そうであるならば当地に鎮座していた「葛神」がそれを継承している可能性も考えられましょう。
ただし、当地の北方2.5kmほどの地に「細川」という地名があることから、そこを流れる冬野川が「細川」だったとも考えられ、そちらに鎮座していた可能性も考えられます。
また、式内社「瀧本神社」の神は見瀬地区に鎮座する「牟佐坐神社」と兄妹のような関係だったともありますが、これが何を意味するかははっきりしません。
なお「葛神」は現在は当社の境内社「九頭神社」となっています。
境内の様子
当社は栢森地区の集落の東方に鎮座しています。
道と並行に石段が伸び、これが境内入口となっています。
石段を上って左側(北側)に手水舎が建っています。
石段を上るとやや広い空間となっており、この奥(北東側)に西向きに鳥居と社殿が建ち並んでいます。
鳥居をくぐってすぐ奥、石垣の上に桟瓦葺・平入入母屋造の割拝殿が建っています。
通路の左右にある部屋は床が張られ、神事などに使う道具の物置となっていました。
割拝殿の通路をくぐると鳥居が建ち、瑞垣に囲まれて銅板葺・一間社春日造の本殿が建っています。
本殿前に配置されている狛犬。砂岩製です。
本社本殿の左側(北側)に境内社が西向きに鎮座しています。不確実ながらこちらが恐らく「九頭神社」で、『大和志』において式内社とされた神社です。
元々は隣接する龍福寺の鎮守社だったといい、現在も社殿の後方に江戸時代の石碑があるようです(未確認)。
社殿は銅板葺の一間社春日造。
本社本殿の右側(南側)にも境内社が西向きに鎮座しています。こちらも不確定ですが、手持ちの資料から「八幡神社」であると思われます。
社殿は銅板葺の一間社春日造。
当社の西側に隣接する浄土宗の寺院「壽亀山龍福寺」。当社の前身である「葛神」はこの寺院の鎮守社だったようです。
山門は閉ざされており拝観不可。


地図
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