社号 | 倭恩智神社 |
読み | やまとおんち |
通称 | |
旧呼称 | 牛頭天王社 等 |
鎮座地 | 奈良県天理市海知町 |
旧国郡 | 大和国式下郡海知村 |
御祭神 | 建凝命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 9月9日 |
倭恩智神社の概要
奈良県天理市海知町に鎮座する式内社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、「淹知(奄智 / アムチ)氏」が当地に居住し祖神を祀ったのが当社と考えられます。
当社の御祭神は「建凝(タケコリ)命」で、アマツヒコネの子孫であり淹知(奄智)氏の祖とされています。
淹知(奄智)氏について、『古事記』のアマテラスとスサノオの誓約の段で、スサノオがアマテラスの髪に巻いていた玉の緒を受け取って噛んで出す息から生まれた神「天津日子根命」は数多くの氏族の祖となった旨が記されており、その中の一つに「倭淹知造」が見えます。
また『新撰姓氏録』には、
- 左京神別「奄智造」(額田部湯坐連と同祖 / 天津彦根命の子、明立天御影命の後)
- 大和国神別「奄智造」(天津彦根命の十四世孫、建凝命の後)
が見え、後者の大和国に居住した奄智造が当社を奉斎したと考えられます。
類似する名を持つ式内社に大阪府八尾市恩智中町に鎮座する「恩智神社」がありますが、こちらは『文徳実録』や『三代実録』に大御食津彦神・大御食津姫神を祀ることが記されており、淹知(奄智)氏の祖神を祀っていません。淹知(奄智)氏が祭祀した後に物部氏や中臣氏といった別の氏族が居住し祭神を変更した可能性は考えられるものの、現状では関連性は薄いと見るべきでしょう。
また当社の社名に「倭」が付いているのは、当地一帯が『倭名類聚抄』に記載されている大和国城下郡の「大和郷」だったことに因むと思われ、河内国の「恩智神社」に対する大和国の神社であることを示すものではないと思われます。
当社は近世以前は「牛頭天王社」と称し、その名の通り牛頭天王を祀っていました。当地の地名「海知」は「カイチ」と読みますが、「アムチ」が「ウムチ」と転訛し「海知」の字が充てられた後に音読化したことが考えられ、これにより式内社と認められたのでしょう。
元々は海知の集落北方の「東フカミ」なる小字(現在地不明)に鎮座していたものの、昭和十九年(1944年)に飛行場建設の計画により集落南側の現在地に遷座しました。結局飛行場は建設されませんでしたが現在も遷座したままとなっています。
境内の様子
当社は海知地区の集落南側、海知池の北側に立地しています。かつては集落の北方に鎮座していましたが、飛行場建設のため昭和十九年(1944年)に現在地に遷座されました。
当社の境内は狭いもののちょっとした森となっており、境内南側に道路に面して南向きの鳥居が建っています。
鳥居をくぐってすぐ左側(西側)に手水鉢が無造作に配置されています。導水施設はありません。
鳥居をくぐってすぐ正面に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺の平入切妻造。小規模な建築ながら、境内が狭いため窮屈な印象です。
拝殿前に配置されている狛犬。砂岩製で古めかしいものです。
当社の石造物は江戸時代頃のものと思われる古いものが多く、旧地からそのまま持ってきたようです。
拝殿後方の基壇上に鳥居と玉垣が建ち、塀に囲われて銅板葺・一間社春日造の本殿が建っています。
基壇の前には四基の灯籠が配されており、いずれも当社の旧称である「牛頭天皇」と刻まれています。
昭和十九年(1944年)の遷座時は既に式内社とされてからかなりの期間となっていますが、それでも当時はまだ牛頭天王の神社と認識されていたのかもしれません。
本社拝殿の左側(西側)に「八幡神社」が東向きに鎮座。社殿は鉄板葺の春日見世棚造。
社殿前に本社の旧称「牛頭天王」と刻まれた石造の榊立が配置されていました。
本社本殿の左側(西側)に「末廣稲荷神社」が南向きに鎮座。
社殿は銅板葺の春日見世棚造。
本社拝殿の右側(東側)に「春日神社」が西向きに鎮座。
社殿は鉄板葺の春日見世棚造。
地図