社号 | 高市御縣神社 |
読み | たけちのみあがた |
通称 | |
旧呼称 | 高県宮(コウケノミヤ) 等 |
鎮座地 | 奈良県橿原市四条町 |
旧国郡 | 大和国高市郡四条村 |
御祭神 | 天津彦根命、高皇産霊神 |
社格 | 式内社 |
例祭 | 10月13日 |
高市御縣神社の概要
奈良県橿原市四条町に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳には名神大社に列せられ、古くは極めて有力な神社だったようです。
当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、かつて大和国にあった六ヶ所の朝廷の直轄地「倭の六県」(高市県、葛木県、十市県、志貴県、山辺県、曽布県)の一つ「高市県」の守護神として祀られたものと考えられます。
これら「倭の六県」は『延喜式』祝詞に見え、蔬菜類を栽培し献上するための農園のような地だったことがわかります。
これら「倭の六県」にはそれぞれその守護神として式内社がありますが、その中でも当社は唯一の名神大社となっており(他は大社)、それに加えて高市県が「倭の六県」の筆頭であることから、とりわけ高市県が重要な県だったと考えられます。
当社の御祭神は「天津彦根命」「高皇産霊神」の二柱です。
『古事記』のアマテラスとスサノオの誓約の段で、スサノオがアマテラスの髪に巻いていた玉の緒を受け取って噛んで出す息から生まれた神「天津日子根命」は数多くの氏族の祖となった旨が記されており、その中の一つに「高市県主」が見えます。
この氏族が高市県を管理して当社を奉斎したのが当社であると考えられます。
『新撰姓氏録』には和泉国神別に天津彦根命の十二世孫、建許呂命の後裔であるという「高市県主」が登載されているものの、大和国には見えません。恐らく登載が漏れているのでしょう。
高皇産霊神が祀られている事情については詳細不明。「倭の六県」が時代と共に形骸化し、高市県主による奉斎であることも忘れられると共にいつの頃か祀られるようになったのかもしれません。
当社は江戸時代以前は「高県宮(コウケノミヤ / コケノミヤ)」と呼ばれ、これは高市御県の「高」と「県」が残り音読化の上転訛したものでしょう。
かつて名神大社だった当社も現在は狭い境内にほんの小さな社殿が建つのみとなっており、辛うじて祭祀が続いてる状態となっています。
境内の様子
当社は古い町並みが残り重伝建となっていることで有名な今井町のすぐ南東、四条町の北側の住宅地に囲まれた一画に鎮座しています。
境内の敷地は狭いながらも社叢は旺盛であり、住宅地の中にあるこんもりとした森はやや異様な雰囲気となっています。
この境内の西側に入口があり、神明鳥居が西向きに建っています。
この鳥居のすぐ正面奥に社殿が西向きに並び、他には若干の灯籠があるだけの実に小ぢんまりとした神社となっています。
拝殿は銅板葺の平入切妻造。
拝殿後方、石垣上に玉垣に囲まれて銅板葺・一間社春日造の本殿が建っています。
地図