社号 | 須佐神社 |
読み | すさ |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 和歌山県和歌山市口須佐 |
旧国郡 | 紀伊国名草郡口須佐村 |
御祭神 | 須佐之男尊 |
社格 | |
例祭 |
須佐神社の概要
和歌山県和歌山市口須佐に鎮座する神社です。
式内社でも国史現在社でもありませんが、紀伊国の国内神名帳『紀伊国神名帳』の名草郡天神に見える「正三位 須佐大神」は当社とされています。
当社の創建年代は不明ながら、いつの頃か有田市千田に鎮座する「須佐神社」から当地に勧請されたものと伝えられています。
『倭名類聚抄』紀伊国名草郡に見える「須佐神戸」は有田市千田の「須佐神社」の神戸だったと考えられ、「口須佐」「奥須佐」の地名の残る当地付近に推定されています。同社の神戸だった当地に同社の神を勧請したのが当社だったのでしょう。
当地は「伊太祁曽神社」の鎮座する伊太祈曽地区に隣接しています。この「伊太祁曽神社」と有田市千田の「須佐神社」は非常に関係が深く、次の点からその様子を窺うことができます。
- 「伊太祁曽神社」の御祭神「五十猛命」は、有田市千田の「須佐神社」(および当社)の御祭神「素戔嗚尊」の子にあたる。
- 天正年間(1573年~1592年)までは毎年九月初寅の日に「伊太祁曽神社」から有田市千田の「須佐神社」へ神馬十二騎が出て神事が行われた。
- 上述のように「伊太祁曽神社」の地に隣接して有田市千田の神戸があった。
さらに有田市千田の「須佐神社」は元々は奈良県吉野地方の山に鎮座していたと伝えられ、対する「伊太祁曽神社」は現在の「日前神宮・國懸神宮」の地(秋月地区)に鎮座していたといい、これは紀ノ川の上流と下流にあたります。
このことから、木材の伐採、運搬、加工の一連の流れの起点と終点にそれぞれが祀られていたと言え、木材の産業を通して両社が一体的に祭祀されたことも考えられるかもしれません。
両社の現在地への遷座後も神馬が出る神事が行われたように深い関係があり、「伊太祁曽神社」に隣接する「須佐神戸」で当社が創建されたのもこうした背景があったのでしょう。
当社は明治年間に「伊太祁曽神社」に合祀されたらしいものの、現在も社殿や鳥居、灯籠等があります。合祀後も神社の体裁を保っていたのか、それとも後に復興されたものなのかは不明です。
現在はかなり荒れ果ててしまっているものの、今でも祭祀が続いている様子が窺えます。
境内の様子
当社は口須佐地区の西側にある小さな丘の南側中腹に鎮座しています。
丘の南麓に入口があり、二基の金属製の鳥居が南向きに建っています。いずれの鳥居もかなり錆びており、状態は良くありません。
鳥居の一基目と二基目の間の右側(東側)に手水舎が建っています。
二基の鳥居をくぐると丘の上へとコンクリート製の階段が伸びています。これもガタついているのが多く、やはり状態は良くありません。
さらに上っていくと、左側(西側)の竹藪の中にやや平坦なところがあり、その奥に社殿が南向きに建っているのが見えます。
社殿はコンクリート製の平入切妻造の覆屋が建っているのみで、拝殿等はありません。
覆屋前の左右には「須佐大明神」と刻まれた寛政十一年(1799年)の灯籠の残骸が建っています。
覆屋の内部には小さな流造状の簡素な本殿が納められています。
この本殿は比較的新しそうに感じられ、覆屋に注連縄が掛けられていることからも今でもしっかり祭祀されているのでしょう。
参道の階段上から鳥居方向を見た様子。口須佐・奥須佐地区の長閑な風景を一望できます。
地図
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