社号 | 南近義神社 |
読み | みなみこぎ |
通称 | |
旧呼称 | 丹生神社、天野明神 等 |
鎮座地 | 大阪府貝塚市王子 |
旧国郡 | 和泉国日根郡王子村 |
御祭神 | 弥都波能売神 他三十五柱 |
社格 | 旧村社 |
例祭 | 9月22日 |
南近義神社の概要
大阪府貝塚市王子に鎮座する神社です。
当社の創建・由緒は詳らかでないものの、いつの頃か大和国吉野郡の丹生神社(丹生川上神社か?)の分霊を勧請したとも伝えられています。
また弘安の役で敵国降伏の祈祷を行った功勲により、正応三年(1290年)三月二十七日に院宣を以て「丹生都比売神社」(和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野)に寄進されて高野山領となったといい、その分霊も当社に勧請されたと言われています。
雨乞い及び安産の神として厚く崇敬を集め、江戸時代には鐘や太鼓を鳴らしながら千度参りが行われたと言われています。
当地を含む泉州地域は瀬戸内海式気候で降雨が乏しいことに加え大きな河川も無いため、雨乞いは生活する上で極めて重要な神事だったのでしょう。
当社は明治年間に多くの神社を合祀しており、その中の一つに式内社の「加支多神社」があったとされています。
ただし現在泉佐野市鶴原に鎮座する「加支多神社」は(元々の「加支多神社」は)現在地に鎮座していた市杵島神社に合祀されたとしており、この辺りの情報に錯綜があるようです。
境内の様子
当社は王子地区の集落東側に鎮座しています。
境内は玉垣で囲われ、入口は一の鳥居が北西向きに建っており、そこから石畳の参道が伸びています。
一の鳥居の後方に配置されている狛犬。
参道の右側(南西側)に手水舎が建っています。
石畳の参道の途中に二の鳥居が北西向きに建ち、そのすぐ後方に注連柱も配置されています。
二の鳥居をくぐると参道の奥に社殿が北西向きに並んでいます。
拝殿は朱の塗装の施されたRC造で、銅板葺の平入入母屋造に唐破風の向拝の付いたもの。
拝殿前に配置されている狛犬。ところどころに赤や金の塗装が施されています。
拝殿後方、塀に囲まれて銅板葺の一間社流造の本殿が建っています。
本社拝殿の右側(南西側)に建つ建屋には昭和五十六年(1981年)まで使用されていた本殿が納められています。
杮葺の一間社春日造に軒唐破風の付いたもので、江戸時代中期の建立と考えられています。(ガラスの反射で写真に撮るのは困難)
貼紙
江戸時代中期より昭和五十六年までの本殿
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一間社 春日造、正面軒唐破風付で屋根は杮葺。身舎の柱は円柱、軒は一軒繁垂木で隅木はなく、組物は出三ツ斗、中備は蟇股である。妻飾は、正面が目連格子、背面が虹梁太瓶束である。平面は前後の二室に分けられ、前室の正面には板扉、後室の正面には引違いの格子戸が設けられ、脇障子には、竹節欄間に変形花菱の透かし彫りが施されている。
庇の柱は几帳面取角柱、柱頭には木鼻(象)付の虹梁が設けられ、中備は蟇股である。軒は二垂繁垂木で、庇と身舎は海老虹梁で繋がれている。正面に階を配し、浜床が設けられている。
梁、桁、貫、組物、虹梁、後室正面の格子戸には朱塗りが施され、庇の唐破風上部の虹梁の袖には濃緑、実肘木、丸桁、蟇股彫刻部分には淡緑色の色彩が残存している。また庇の菖蒲桁、虹梁端部に雲文(青海波文もしくは輪違文か)、組物、実肘木にも何らかの文様を描いていたらしい黒斑が認められるが、風化により詳細は不明である。内陣正面の板扉には草木文らしき文様が描かれ、側面板壁にも文様が描かれていたが、風損が著しく肉眼では原形の判断ができない。正面の蟇股には花鳥文、側面蟇股には草花文(菊)の透かし彫刻が施されている。
建築当初は彩色が全体に施された荘厳な社殿であったことが窺われる。願泉寺ほか貝塚市内周辺に多くの遺構を残す、江戸幕府作事方彫物棟梁岸上家の関与が推測される。
祭式の色落ちはかなりあるが、森稲荷神社や泉佐野市の火走神社などと類似が認められる。
(平成二十年十一月七日 貝塚市教育委員会調査報告要約)
損傷は色落ちの他かなり認められますが、貴重な財産ですので可能な限り大切に保存していく方針です。
南近義神社
本社拝殿の左側(北東側)には社務所とを結ぶ屋根付きの渡り廊下があります。
渡り廊下の奥には拝所があり、案内板にはこれは伊勢神宮遥拝所とあります。
しかしこの拝所の奥には「〇〇大明神」と刻まれた石碑の納められた石祠や墓石等が配置されており、これらへの拝所でもあるのかもしれません。
タマ姫
この辺りは大きな川が無くて雨も少ないから雨乞いは死活問題だったのよ。
トヨ姫
由緒
案内板
南近義神社
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鎮座地 貝塚市王子一一九五番地
由緒
当社はもと丹生神社と称し、伝説によると大和国吉野丹生神社の御分霊を勧請したものというが詳らかではない。近義郷は弘安の役で敵国降伏の祈請をこめた勲功により、正応三(一二九〇)年三月二十七日、院宣を以て丹生高野社(丹生都比売社)に寄進されてより長く高野山領であったので、その御分霊を勧請して産土神(氏神)と崇め奉り、天野明神と呼ばれていた。水、雨、あるいは安産の神として信仰があつく、江戸時代には雨乞いのため、鐘・太鼓を鳴らしながらの千度参りが行われた。
明治五年村社に列し、同四十年十月二十八日王子字馬郡の八幡神社、同字戎の出口神社、同字権現の熊野神社、同字新宮の市杵島神社、同字宮脇の神明神社、同字明楽寺の住吉神社、同字船戸の春日神社、同字氏神の加茂神社を合祀した。また同年十月三十日同字原宮の市杵島神社、大字沢字堂の坂の五社神社を合祀し、十一月十六日には字貝田社の加支多神社、大字沢字高林の加茂神社を合祀した。更に翌四十一年九月五日字新出の加茂神社を合祀し、翌四十二年五月十八日大字橋本字小名城神社、同字栂宮の北の神社、同字島ヶ崎の島崎神社、同字野口の藤の木神社、同字出原の神明神社、大字窪田字東の市杵島神社、同字西の市杵島神社、大字堤字宮の久保の厳島神社、大字地蔵堂字権現の熊野神社、大字沢の八品神社を合祀するとともに今の社名に改められた。
八品神社は明治四十年十月二十九日、大字浦田字氏神の五社神社を、翌三十日大字沢字ウベの熊野神社、字半戸の道陸神社、字高林の加茂神社、字堂の坂の五社神社、同年十一月十一日大字沢字四柱の菅原神社を合祀したもので、熊野九十九王子のうち、鞍持、近木王子も合祀されていた。
なお、合祀社のうち字馬郡の八幡神社は『和泉誌』にその名が見え、『国内神名帳』には「従五位下馬郡社」とある。また八品神社は、『和泉誌』に櫛代詞「在沢村、相伝古昔調進、伊勢斎宮御櫛干比」と見えるように、櫛の神として崇拝され、『泉州誌』にも「近木櫛、藤原明衡新猿記載、諸国土産曰和泉櫛、余按、近木郷造櫛耆年既尚矣明衡所謂和泉櫛乃是歟」とある。
祭神
弥都波能売神(主祭神)《水の神・安産の神》
丹生都比売神(配神)《高野山鎮守社丹生都比売神社より勧請》
誉田分命《安産の神・八幡神》
蛭子命《海神・えべっさん・商売繁盛》
大国主命《王子社の神》
熊野大神《王子社の神・熊野権現》
市杵島命《水の神》
天櫛玉命《櫛の神・理容・美容の神》
素盞嗚尊《大地の神・防疫神》
寵神《台所の神》
天照大神《五穀豊穣・皇祖神》
住吉大神《航海安全・おはらいの神》
春日大神《建御雷神・武神・雷神》
加茂大神《伊邪那岐・伊邪那美命・万物生成の神・縁結び》
菅原道真《学問の神・厄除け》
など合わせて三十六の神々が祀られている
例大祭
九月二十二日
地図
大阪府貝塚市王子