社号 | 横野神社 |
読み | よこの |
通称 | |
旧呼称 | 印地宮、印色宮 等 |
鎮座地 | 大阪府大阪市生野区巽西 |
旧国郡 | 河内国渋川郡大地村 |
御祭神 | 印色入日子命 |
社格 | 式内社 |
例祭 | 当地での祭祀は廃絶 |
式内社
横野神社の概要
大阪府大阪市生野区巽西に鎮座していた式内社です。明治四十年(1907年)に巽南地区に鎮座する「巽神社」へ合祀されました。
当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、『日本書紀』仁徳天皇十三年十月条に「横野堤を築く」とあり、この「横野堤」と関係があると考えられています。
「横野堤」の場所は不明ですが、江戸時代中期に畿内の式内社の比定を行った並河誠所による考証の結果、当地付近と考えられるようになったようです。
「横野堤」については詳細不明ながら、この地は低湿であり海水が押し寄せるので潮を防ぐための堤だった、或いはこの地を流れていた大和川水系の川の堤だった等の説があります。
いずれにせよ、当社は当地に築かれた「横野堤」の守護神的な役割を持っていたと考えられています。
同様の神社に、茨田堤の守護神として祀られたと思われる茨田郡「堤根神社」(門真市宮野町に鎮座)や、狭山池の堤防の守護神と考えられる丹比郡の「狭山堤神社」(大阪狭山市半田の「狭山神社」境内に鎮座)があります。
当社は江戸時代には「印地宮(インジノミヤ)」もしくは「印色宮」と呼ばれていました。
御祭神の「印色入日子命」は垂仁天皇の第二皇子であり、横野堤を築いたとされる仁徳天皇とは微妙に遠い関係となっています。
ただ、印色入日子命は河内国・和泉国において池を築造する等の土木事業を行ったことが記紀に記されているので、この関係で堤の神とされたとする説もあるようです。
当社は江戸時代中期には荒廃していたようで、一時は「八幡宮」(現在の「巽神社」)に遷されていましたが、享保年間に並河誠所によって式内社「横野神社」とされ、旧地に復して再興されたと伝えられます。
しかし先述の通り明治四十年に「巽神社」に合祀されて今に至るので、ある意味で元の状態に戻ったとも言えます。
堤の守護神として祀られた当社は、時代を経て堤がなくなると共に信仰が薄れ忘れられてしまうのも仕方のないことなのかもしれません。
境内跡の様子
境内跡地は雑居ビルの切り欠けとなるほんの狭い一画にあります。
金網の内側に石碑等が建っています。
看板には「大阪市内でも特に有名な史蹟」「沢山の人が遠くからこの史蹟をわざわざ見学に来られます」と書いてあります。それ故にここに駐車しないよう注意する看板ですが、ちょっと盛りすぎな印象。
石碑には「式内 横野神社舊跡」と刻まれています。注連縄が掛けられ、酒(?)が供えられており、今でも祭祀場として大切にしてる人がいるようです。
由緒
案内板
史跡 横野神社蹟
『河内名所図会』
地図
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