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堤根神社 (大阪府門真市宮野町)

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社号 堤根神社
読み つつみね
通称
旧呼称 天満宮 等
鎮座地 大阪府門真市宮野町
旧国郡 河内国茨田郡常称寺村
御祭神 彦八井耳命、菅原道真公
社格 式内社、旧村社
例祭 10月21、22日

 

堤根神社の概要

大阪府門真市宮野町に鎮座する式内社です。

古く旧淀川が河内湖へ注ぐ地だったという当地は氾濫が多く、仁徳天皇の御宇に日本最古の堤防である「茨田堤」が築かれました。当社境内にこの茨田の堤とされる堤防が残っており、堤防の守護神として祀られたものと思われます。

茨田堤に関して、『日本書紀』に次のような記事があります。

仁徳天皇十一年十月、茨田堤を築く時、築いてもすぐに壊れて塞がらないところが二ヶ所あった。この時天皇の夢に神託があり、「武蔵の人強頸(こわくび)と河内の人茨田連衫子(まむたのころものこ)の二人を川の神に差し出せば堤は必ず塞がる」といった。二人を探し出して川の神に祈り、強頸は泣き悲しみながら水没して死に、その堤の一ヶ所は完成した。一方、衫子は二つの瓢箪を取り出し水中に投げ入れると「川の神よ、私を欲するのならば瓢箪を沈めて見せよ。そうすれば私は真の神と認めて川へ入ろう。しかし沈められないのなら偽の神なので、わが身を差し出すわけにいかない。」と言った。するとたちまち風が起こり瓢箪を水中へ引いたが、瓢箪は波の上を転がるだけで一向に沈まない。そうする内に遠くへ流れてしまった。これにより衫子は死ぬことなくもう一ヶ所の堤も無事に完成した。時の人はこの両地点を強頸断間、衫子断間と呼んだ。

強頸断間は大阪市旭区千林町、衫子断間は寝屋川市太間に比定されており、後者に鎮座する太間天満宮には茨田連衫子が祀られています。

当社の御祭神の「彦八井耳命」は衫子をはじめとする茨田氏の祖です。『新撰姓氏録』河内国皇別には彦八井耳命の後裔である「茨田宿祢」が登載され、仁徳天皇の御代に茨田堤を造った旨が記されています。当地を本貫とし、堤の築造に大きくかかわった茨田氏が堤の神と共に祖神を祀ったのが当社と考えられます。

仁徳天皇の時代は大陸から技術を持った渡来人が多く来朝し、彼らの技術で以て土木工事が盛んに行われました。当時はこのようにして自然の脅威を克服していく時代であり、こうして造られた施設にもまた神の力が宿るとして新たな信仰が生まれた時代だったと思われます。堤防の神という珍しい式内社である当社はこうした最先端の現場で生まれた信仰だったと言えることでしょう。

ちなみに、丹比郡(大阪狭山市)の狭山堤神社や渋川郡(大阪市生野区)の横野神社も当社と同様に堤防の神として祀られたと考えられています。

 

境内の様子

境内入口。鳥居から社殿まで参道が真っすぐに伸びています。

 

境内はとてもよく整備されています。

 

参道途中の左側(西側)に手水舎があります。

 

参道の先、ちょっとした石段の上に真新しい社殿が建っています。拝殿は平入の入母屋造りに向拝が付いています。

 

拝殿前に配置される狛犬。台座には文化年間の銘がありますが狛犬も同時期のものでしょうか。

 

拝殿前の灯籠は寛永六年(1629年)の銘があり、真新しい印象の当社境内において歴史を感じさせるものとなっています。

 

本殿は流造。モルタルか何かで壁が張られてあります。

 

社殿の右奥、境内の北東に東西方向の土盛りがあります。これが仁徳天皇の御代に築かれたという「茨田堤」であると伝えられています。茨田堤は殆どが消失しましたがここだけ残っているようで、堤としての役目を終えてもなお祭祀が続けられる当社と併せて、当地の古代の様子を感じさせる数少ない遺構と言えるものです。

 

社殿の後方に「三宝神」「宅神」と刻まれた石碑が祀られています。三宝神は「火産靈神」「句々廼馳命」「水速女命」を、宅神は「彦狭智命」「闇淤加美命」「闇御津羽神」を祀っています。

 

社殿前の石段下にも境内社が鎮座しています。

 

手前側には「稲荷社」が鎮座。「末鷹大神」「熊吉大神」を祀っています。

 

中央には「蛭子社」が鎮座。「蛭子大神」を祀っています。

 

奥側には「九頭大明神」「八幡大菩薩」が鎮座。覆屋内の石祠に梵字が刻まれてあり、なかなか珍しいものです。

 

古めかしい神社こそ最高とは思いつつ、当社のように真新しく整備された神社の中から歴史の痕跡を探るのもまた違った楽しみがあるものです。

 

由緒

石碑「延喜式内社 堤根神社」

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延喜式内社 堤根神社

御祭神 彦八井耳命 菅原道真公

約一六〇〇年前、河内湖周辺を水害から守るため、仁徳天皇の命により茨田宿根が旧淀川(古川)に日本最古の堤防、茨田堤を築く。

この堤を守るため、茨田氏の先祖彦八井耳命(神武天皇の皇子)を守護神として奉祀したのが神社の起源である。

平安時代の延喜式神名帳にも記され、鳥居前には河内と大和を結ぶ行基道が通じており、北河内随一の古社として厚い信仰を集めている。

また、江戸時代初期、淀藩主、永井信濃守尚政により菅原道真公を合祀させている。

案内板「伝 茨田堤」

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伝 茨田堤

古代の大阪は上町台地を除くそのほとんどが海であり、各河川の土砂の堆積により河内湾から河内潟、河内湖へと地形が変化してきました。

五世紀には河内国もほぼ陸地となっていましたが、北の河(現在の淀川)、南の川(現在の旧大和川)を主流とする各河川は河道が定まっておらず、堆積土砂による低湿地帯で常に河川の氾濫に悩まされる土地柄でありました。

そこで時の大王、仁徳天皇は河内の低湿地帯を農耕地に換えることを計画されました。

まず河内に滞りがちな川水を大阪湾に流す運河を掘削しました。これを難波の堀江といい、現在の大川といわれています。

そして北の河の一番南端の支流である現在の古川に沿うように堤防を築きました。この堤防が茨田堤です。

堤は寝屋川市大間付近より守口市の高瀬付近まであったと言われています。この事業は国家プロジェクトとして、当時のハイテク集団である渡来系の人々の技術を駆使しましたが、大変な難工事であったようで、多大なる犠牲と人々の知恵と努力の限りを尽くして堤は完成し、茨田屯倉が造られたとあります。そして古代国家の経済的な基盤が確立しました。

その後、都は河内から大和そして京都へと移されましたが、時の為政者たちはこの堤の大切に守り、氾濫があるたびに多大な費用を持って修復に努めました。

淀川の流れは数度の改修を経て茨田堤は現在その使命を終えています。各地で分断され残されていた堤も戦後の開発ラッシュにより次々に宅地化され、神社東方にわずかに残るのみとなりました。そこで、茨田堤を後世に伝えようと『茨田堤を守る会』を結成し、その努力が実り大阪府指定の史跡と認定され永久に保存されることとなりました。

築堤の中心的な役割を担ったのが茨田氏といわれています。堤の完成後、堤の守護を願い氏族の祖先である彦八井耳命(神武天皇第一皇子)をお祀りしたと伝わります。

古来堤の中心にある事から堤根神社と尊称されています。

『河内名所図会』

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堤根神社

常称寺村にあり。延喜式出。今天満宮と称す。この辺 常称寺村 野口村 横地村 打越村 北嶋村 等の生土神とす。例祭九月十五日。傍に神宮寺あり。ここも常称寺といふ。

 

地図

大阪府門真市宮野町

 

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