社号 | 赤羽神社 |
読み | あかば |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 兵庫県神戸市西区伊川谷町潤和 |
旧国郡 | 播磨国明石郡井出村(白水村?) |
御祭神 | 天羽赤玉命、伊弉諾命、軻遇突知命、大日靈貴命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 十月第二月曜日 |
式内社
赤羽神社の概要
兵庫県神戸市西区伊川谷町潤和に鎮座する式内社です。
社伝によれば当社は聖武天皇十八年(天平十三年(741年)もしくは天平十八年(746年)か?)の勧請と伝えられています。
また当社の由緒を記した石碑には、一説に天日槍(アメノヒボコ)のもたらした「羽明玉」により赤羽神社の名が起こり、明石郡の郡名も起こったとも記しています。
「天日槍」とは垂仁天皇の御代に渡来してきた新羅国の王子で、いくつかの宝物をもたらし、但馬国(現在の兵庫県北部)を治めた人物です。
この宝物の数および内容は史料によって異なっており、『日本書紀』本文では「羽太玉」「鵜鹿鹿赤石玉」などの名は見えるものの、石碑に言うような「羽明玉」の名はこの場面ではいずれの史料にも登場しません。
他の場面では、『日本書紀』第六段一書②でスサノオが高天原へ昇ろうとした際に「羽明玉」なる神が迎えて瑞八坂瓊曲玉を奉ったことが記されています。
この「羽明玉」なる神は詳細不明ながら、「玉祖氏」「玉作氏」らの祖神(異名が非常に多く錯綜している)の一神と考えられます。
石碑に記されている「羽明玉」は恐らくこの名称を天日槍がもたらしたものと誤ったもの、或いは「羽太玉」と「鵜鹿鹿赤石玉」を合成したものと思われます。
江戸時代の地誌『播磨名所巡覧図会』の当社の記事に(恐らく参考として)天日槍が「羽太玉」「赤石玉」をもたらした旨が記されており、石碑の記述はこれを受けたものでもあるのでしょう。
また、江戸時代の国学者・度会延経の著した『神名帳考証』にも当社について「羽明玉」ではないかと記している一方、「天都赤星」である可能性も指摘しています。
「天都赤星」は物部系の史書『先代旧事本紀』天神本紀に登場する神で、ニギハヤヒの降臨に舵取りとして付き従い、為奈部らの祖であると記しています。
また同紀にはこれとは別にニギハヤヒに付き従った神として筑紫弦田物部らの祖「天津赤星」も記しています。
しかしいずれにしても推測の域を出るものでなく、当社の由緒についてははっきりしないと言わざるを得ないでしょう。
現在の当社の御祭神は「天羽赤玉命」「伊弉諾命」「軻遇突知命」「大日靈貴命」の四柱となっています。
当社石碑には「天羽赤玉命」について「伊弉諾命の御子高魂命の孫」としており、「玉祖氏」「玉作氏」らの祖神である旨を記しています。ここでは上記『日本書紀』第六段一書②の「羽明玉」が想定されているのでしょう。
当社の所在地について、『播磨鑑』『神社覈録』などは「白水村」と記しているものの、白水村は井川の右岸側であり、左岸側の当地は井出村だったはずです。恐らく手違いが修正されないまま後世の文献にも援用されたのでしょう。
明治年間に井出村、白水村、そして東河原村が合併して潤和村となり、現在の大字として継承されています。
『神名帳考証』には「在赤羽村」とあり、江戸時代中期頃までは赤羽村の地名も残っていたようです。
境内の様子
当社の鳥居は境内の南西300mほどの地に南西向きに建っています。
境内には鳥居が無く、参拝の際にここを通る参拝客も多くないと思われ、当社には鳥居が無いと思っている人も多いかもしれません。
鳥居から北東へと道を進んでいくとこんもりとした森が見えてきます。
これが当社境内で、入口には公園によくあるような自動車の進入を防止する柵が設けられています。
入口から参道を進むと神門が南西向きに建っています。
神門の形式は本瓦葺の薬医門。袖塀が無く、さらに左側は玉垣も無くがら空きなので象徴的な出入口なのでしょう。
神門をくぐって右側(南東側)に手水舎が建っています。
神門をくぐると広い空間となっており、この正面奥に社殿が南西向きに並んでいます。
拝殿は銅板葺の平入入母屋造に唐破風の向拝の付いたもの。比較的新しい建築。
拝殿前に配置されている狛犬。
拝殿後方に銅板葺の三間社流造の本殿が建っています。何故か千木は内削ぎ。
本社社殿の右側(南東側)に境内社が南西向きに鎮座。社名・祭神は不明。恐らく稲荷系なのでしょう。
朱鳥居が二基並び、朱塗りの塀に囲われて妻入切妻造の覆屋が建っており、この中に杮葺の一間社流造の社殿が納められていました。
由緒
石碑
赤羽神社由緒
地図