社号 | 鞍居神社 |
読み | くらい |
通称 | 野桑のお宮さん 等 |
旧呼称 | 十二社権現 等 |
鎮座地 | 兵庫県赤穂郡上郡町野桑 |
旧国郡 | 播磨国赤穂郡野桑村 |
御祭神 | 神日本磐余彦命 |
社格 | 式内社 |
例祭 | 10月19日に近い日曜 |
式内社
鞍居神社の概要
兵庫県赤穂郡上郡町野桑に鎮座する神社です。金出地地区に鎮座する「鞍居神社」と共に式内社「鞍居神社」の論社となっています。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
兵庫県神社庁HPの記す当社由緒によれば、当社は赤松則村の崇敬を受けたものの天文年間(1532年~1554年)に尼子晴久の兵火に罹って社殿や記録が焼失したといい、その後小祠を営み祀っていたところ、慶長五年(1600年)に池田輝興が旱魃の際に祈雨のため富満寺満勝院へ参詣の途中、当社に参拝し、その荒廃を嘆いて社殿を造営した旨を記しています。
ここに登場する池田輝興とは赤穂藩の二代藩主ですが、慶長十六年(1611年)の誕生であるため矛盾が生じ、上記由緒には手違いが含まれているものと思われます。
また当社は十二社権現と称していたようで、神日本磐余彦命に配して天神七代、地神五代を祀っていたとも記しているものの、江戸時代以前からそのように祀っていたとは到底考えにくく、或いは熊野信仰に基づく十二所権現の神々を祀っていたのかもしれません。
一方で江戸時代の地誌『播磨鑑』は式内社「鞍居神社」は「岩木谷倉井村」なる地にあると記しています。
これは当地から西方に約8kmも離れた岩木川沿いの岩木丙付近と思われ、実際に「倉尾」なる小字もあるようですが、現在それらしき神社は見当たりません。
敢えてそのような地に求める理由はなく、やはり式内社「鞍居神社」は素直に鞍居川沿いにあったと見るべきでしょう。
当社が式内社とされたのは鞍居川の近隣にあることによると思われ、もう一つの論社である金出地地区の「鞍居神社」も同様でしょう。
明治以降はいずれが式内社であるか激しく争ったといい、現在両社共に「鞍居神社」を名乗っています。
両社とも特に根拠があるわけでないためいずれが式内社であるかは決定できず、また他の地に鎮座していた可能性も無いとも言えないことでしょう。
少なくともこの付近に鎮座していたことは想定して良さそうです。
境内の様子
当社は鞍居川に合流する大富川を少し遡ったところ、野桑地区の集落から離れた地に鎮座しています。
人家の無いような山間の森に塀で囲われた区画があり、ここが当社の境内となります。
境内南端に入口があり、石段を上った所に鳥居が南向きに建っています。
鳥居をくぐった様子。鬱蒼とした社叢に覆われています。
さらに石段を上った先の平らな空間に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は本瓦葺の平入入母屋造に唐破風の向拝と千鳥破風の付いた割拝殿。
拝殿前に配置されている狛犬。
拝殿内部の様子。屋根裏には非常に多くの絵馬が掲げられています。
拝殿後方には桟瓦葺の妻入切妻造の幣殿が建っており、拝殿とはまた別にこちらにも鈴の緒が設置されています。
幣殿後方の一段高いところに銅板葺の一間社入母屋造の本殿が建っています。
本社本殿の左側(西側)に隣接して境内社が南向きに鎮座。社名・祭神は不明。
社殿は鉄板葺の一間社流造。
本社本殿の右側(東側)にも同様に隣接して境内社が南向きに鎮座。社名・祭神は不明。
社殿は鉄板葺の一間社流造。
なお、当社の貼紙に境内社として「磐長姫神社(稗田神社)」があって「磐長姫」「天照大神」を祀る旨を記しています。
恐らく上記の二社のいずれかがそれに当たるのでしょう。
手水舎(?)は本社社殿から西へ離れた森の中にありました。
参拝者の動線から大きく外れたところであり、ここに配されているのも恐らく手水鉢でなく井戸と思われ、手水としては用いられていないものと思われます。
由緒
貼紙
地図
関係する寺社等
鞍居神社 (兵庫県赤穂郡上郡町金出地)
社号 鞍居神社 読み くらい 通称 旧呼称 八幡宮 等 鎮座地 兵庫県赤穂郡上郡町金出地 旧国郡 播磨国赤穂郡金出地村 御祭神 帶中津比古命、誉田別命、息長足姫命 社格 式内社、旧郷社 例祭 10月第 ...
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