社号 | 乎疑原神社 |
読み | おぎはら |
通称 | |
旧呼称 | 天神宮 等 |
鎮座地 | 兵庫県加西市繁昌町 |
旧国郡 | 播磨国加西郡繁昌村 |
御祭神 | 大国主命、少彦名命、菅原道真命 |
社格 | 式内社、旧郷社 |
例祭 | 3月25日 |
式内社
乎疑原神社の概要
兵庫県加西市繁昌町に鎮座する式内社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。当社についての記録や伝承は極めて乏しく、当社の来歴を明らかにすることは困難です。
また式内社「乎疑原神社」は江戸時代には所在不明となっており、当社に比定された理由もはっきりしません。
当社は江戸時代以前は「天神宮」と称し、天神信仰の神社だったようです。
現在の御祭神は「大国主命」「少彦名命」「菅原道真命」の三柱。一説には元は少彦名命が主祭神で、天津神を祀る天神宮と称していたのを、後に天神信仰と混同し菅原道真を祀ると見做されるようになったとも言われています。
当社の鎮座する丘陵の東麓には白鳳時代の寺院「繁昌廃寺」があり、南北の塔、金堂、講堂、西土塁が発見されています。また普光川の河原からは白鳳時代の石仏(石造五尊像)も発見されています。
少なくとも当地は白鳳時代から開け、仏教文化の華開いた地であったことが窺えます。
ただ当社は当初からこの地に鎮座していたわけでなく、元は西方約1.3kmの豊倉町に鎮座していたとも言われており、旧地には現在も同名の「乎疑原神社」が鎮座しています。
境内の様子
当社は繁昌町の西側にある丘陵の上に鎮座しています。
丘陵東麓に入口があり、鳥居が東向きに建っています。
この鳥居は室町時代に建立されたものといい、加西市指定文化財となっています。
鳥居から緩やかな坂になっている参道を進むと広い空間へと至ります。
参道途中の左右には互いを向き合うように一対の石祠が鎮座しています。形式はいずれも平入入母屋造に唐破風の付いたもの。
社名・祭神は不明ではあるものの、加西市では随身門でなく境内社という形で随身を祀る例が多く見られるため、これも恐らくその一例と思われます。
広い空間へ出て左側(南側)に手水舎が建っています。手水鉢が配置され、それに隣接して柵で囲われた区画があり、そこには井戸が配されています。
広い空間の正面奥に社殿が東向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺の平入入母屋造。桁行五間の大規模な建築です。
割拝殿に見えるものの、通路部分にも床が張られているため厳密には割拝殿とは言えません。
拝殿前に配置されている狛犬。
拝殿後方には桟瓦葺の妻入入母屋造(背面は切妻造)の幣殿が建っています。
幣殿の後方には銅板葺の三間社流造に千鳥破風と唐破風の付いた本殿が建っています。
本社本殿の手前左右にはそれぞれ牛の像が配置されています。
当社がかつて天神信仰の神社であったことを示すものでしょう。
境内社等
本社社殿の周囲に非常に多くの境内社が鎮座しており、当記事ではこれらを時計回りに紹介していきます。
本社本殿の左側(南側)に境内社が東向きに鎮座。社名を示す札の文字が掠れて読みにくいものの、恐らく「稲荷神社」であると思われます。
社殿は銅板葺の一間社流造。境内社群の中では大規模な建築です。
稲荷神社(?)の左側(南側)に「三輪社」と「新宮社」の相殿が北向きに鎮座。
社殿は銅板葺の二間社流見世棚造。
本社本殿の左後ろ(南西側)に境内社が東向きに鎮座。社名を示す札は文字が掠れており判読不能。
平入入母屋造の石祠が覆屋に納められています。
本社本殿の右奥(北西側)に境内社が東向きに鎮座。社名・祭神は不明。
玉垣に囲われて平入入母屋造に唐破風の付いたの石祠が建っています。
本社本殿の右側(北側)に「八幡神社」が東向きに鎮座。
社殿は銅板葺の一間社流造。稲荷神社(?)と同様、境内社群の中では大規模な建築。
八幡神社の右側(北側)に「若宮社」と「三宝荒神」の相殿が南向きに鎮座。
社殿は銅板葺の二間社流見世棚造。
上記の相殿の右側(東側)に隣接して境内社が南向きに鎮座。社名・祭神は不明。
社殿は唐破風付きの流造の石祠となっています。
本社社殿から離れて境内の西端に本瓦葺の入母屋造の鐘堂が建っており、梵鐘が吊るされています。
この梵鐘は姫路市白国にある天台宗の寺院「増位山随願寺」にあったものを大永六年(1526年)に譲り受けたもので、加西市指定文化財となっています。
由緒
案内板
延喜式内 天神宮 乎疑原神社
案内板
播磨国風土記ゆかりの地
地図
関係する寺社等
乎疑原神社 (兵庫県加西市豊倉町)
社号 乎疑原神社 読み おぎはら 通称 旧呼称 鎮座地 兵庫県加西市豊倉町 旧国郡 播磨国加西郡豊倉村 御祭神 大物主命、少彦名命 社格 式内社、旧村社 例祭 式内社 播磨國賀茂郡 乎疑原神社 &nb ...
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