社号 | 兵主神社 |
読み | ひょうず |
通称 | 和泉大宮 等 |
旧呼称 | |
鎮座地 | 大阪府岸和田市西之内町 |
旧国郡 | 和泉国南郡西之内村 |
御祭神 | 天照大神、八幡大神、管原道真 |
社格 | 式内社、旧郷社 |
例祭 | 10月9日 |
式内社
兵主神社の概要
大阪府岸和田市西之内町に鎮座する式内社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。社伝では天正年間(1573年~1592年)に兵火に遭ったため記録が残っていないとしています。
とはいえ「和泉大宮」と呼ばれ、かつては掃守郷十二ヶ村の氏神だったこともあり、当地では大きな影響力を持った神社だったことが伺えます。
天正年間の焼失後に掃守郷の村々が各々で氏神を勧請したため西之内村のみの氏神となりましたが、雨乞いの際は依然掃守郷の村々から庄屋年寄が出仕したと伝えられています。
現在の御祭神は「天照大神」「八幡大神」「管原道真」ですが、元々は「兵主神」を祀っていたものと思われます。
兵主神とは中国の兵器・製鉄の神である「蚩尤(シユウ)」の別名であり、半人半獣の姿だと言われています。
中国の蚩尤と全く同一の神と見て良いかは検討の余地がありますが、『延喜式』神名帳には大和国城上郡の「穴師坐兵主神社」(奈良県桜井市穴師に鎮座)をはじめ各地に「兵主神社」を名乗る神社があり、それらは製鉄が行われたところに鎮座するとも言われています。当地でも製鉄が行われていたのかもしれません。
また、先の「穴師坐兵主神社」からしても「穴師」と「兵主」は関係があったと言えるかもしれません。
「アナシ」とは戌亥(北西)の風のことであり、この風を利用して製鉄を行なったとする説があります。
当地の北東4kmほど、泉大津市豊中町に式内社の「泉穴師神社」が鎮座しており、『延喜式』神名帳でも泉穴師神社の次に当社が記載されているから、何らかの関連性があったとしてもおかしくはありません。
とはいえ積極的に結び付けられる確証があるものでなく、可能性を指摘しておくに留めておくべきでしょう。
当社の本殿は豊臣秀吉の再建と伝えられ、国指定重要文化財となっています。
また、当社には室町時代のものと思われる古い能面が九面伝わっており、古くからこの地で能が行われていたことが伺われます。これら能面は神前に飾ると雨乞いに験があるとされ「天降の面」とも呼ばれています。
当社の由緒は不明な部分が多いですが、このように古いものがよく伝わっており、当社の歴史の深さが感じられます。
境内の様子
境内入口。当社境内は東西南北を頂点とする菱型となっており、入口はその南端にあります。入り口に建つ一の鳥居は南東向き。
入口に配置されている狛犬。出来立てほやほやの真っ白な花崗岩製のもの。
一の鳥居をくぐると石畳の参道が北西方向に伸びています。
参道は突き当りで右側へ折れて北東方向へ向きを変え、そこに二の鳥居が南西向きに建っています。
二の鳥居をくぐって右側(南東側)に手水舎があります。
正面に社殿が南西向きに並んでいます。拝殿は瓦葺・平入入母屋造に千鳥破風と銅板葺の唐破風が付いたもの。
拝殿前の狛犬。こちらも真新しい花崗岩製のものです。
拝殿後方に塀に囲われて本殿が建っています。檜皮葺の三間社流造で軒唐破風が付いており、朱が施されています。
年代は不明ながら豊臣秀吉の再建と伝えられ、桃山建築の特徴の見られる貴重な建築として国指定重要文化財となっています。天正年間の焼失後間もない時期の造営なのでしょう。
境内の東は広い空間となっており、多くの境内社が鎮座しています。
社殿の右側(東側)に鳥居が建っており、その奥に鎮座する境内社群への入口となっています。
鳥居をくぐると長細い池があり、中央に朱の欄干の橋が架かっています。この池は「蛇渕」と呼ばれ、古くから雨乞祈願の行われたところです。旱魃の際は上述のように「天降の面」を神前に置くとともに、当社の別当寺だった久米田寺多門院の僧を招いて陰陽の榊、赤白の幣帛をもって蛇渕で読経し雨を祈ったと伝えられています。
和泉地方は雨の少ない瀬戸内海式気候であることに加え、大きな河川も無いので水の確保は死活問題で、久米田池は当地の生命線とも言える重要な水源でした。久米田池を管理するために建立されたと言われる久米田寺はまさに水利の専門家であり、久米田寺の僧を雨乞祈願に招くことで、水源としての久米田寺、そして降雨を司る水神を祀る当社との間で水に関する一体的な信仰空間があったと見ることができそうです。
蛇渕の橋の先には「龍王神社」が鎮座しています。御祭神は「豊玉姫命」。前述の蛇渕の水神であり降雨を司る神として信仰されています。
一方で豊玉姫命は海神である豊玉彦命の子であり、近隣には中井地区に同じく豊玉彦命の子である布留多摩命を祀る「夜疑神社」が鎮座しており、海人族の信仰した神として何らかの繋がりがあるのかもしれません。
尤も、水神や龍神に海神である豊玉姫命を充てることは各地で見られるものであり、当社の場合もたまたま蛇渕の主として豊玉姫命が選ばれたに過ぎないことも考えられます。
龍王神社の右側(東側)に「三宝荒神社」が鎮座しています。御祭神は「澳津彦命」「澳津姫神」「土祖神」。
三宝荒神社の右側(東側)に牛の石像、そしてその右側(東側)に「牛王神社」が鎮座しています。御祭神は「牛頭天王」。牛の石像はこの神社に属するものでしょう。
基壇上に二基の祠がありますが、両方合わせて「牛王神社」なのでしょうか。
龍王神社から牛王神社まではこのように一列に並んでいます。
蛇渕前の鳥居の右側(東側)には何故か石造十三重塔が建っています。古いものならともかく、これは比較的新しいものです。どういう由縁で神社に奉納されたのでしょう。
石造十三重塔の右側(東側)に「大宮稲荷大明神」が鎮座しています。
大宮稲荷大明神の右側(東側)には「大宮戎社」が鎮座。御祭神は「事代主命」。
大宮戎社の右側(東側)に「厳島神社」が鎮座。御祭神は「市杵島姫命」。
蛇渕の神とは別に市杵島姫命が祀られているのは不思議な気もします。旧・下松村から当社に合祀した神社の一つに厳島神社があり、こちらがそうなのかもしれません。
厳島神社の右側、境内の東端近くにも出入口があり鳥居が建っています。その付近には砂岩製の狛犬や手水鉢など、古く当社の表参道に置かれていたであろう古い石造物がひっそりと置かれていました。
御朱印
由緒
石碑
兵主神社 由緒記
地図