社号 | 津嶋部神社 |
読み | つしまべ |
通称 | |
旧呼称 | 大宮天満宮 等 |
鎮座地 | 大阪府守口市金田町 |
旧国郡 | 河内国茨田郡金田村 |
御祭神 | 津嶋女大神、素盞嗚尊、菅原道真公 |
社格 | 式内社、旧郷社 |
例祭 | 10月第三土曜日 |
津嶋部神社の概要
大阪府守口市金田町に鎮座する式内社です。
当社の創建、由緒は詳らかでありません。
元は500mほど東方、現在の寝屋川市対馬江地区付近に鎮座していましたが、洪水により現在地に遷座したと伝えられています。
また寛永十年(1633年)に淀藩の初代藩主となった永井尚政が当地を領有したときに「菅原道真公」を合祀して「大宮天満宮」と称されるようになったと言われています。
当社は一説に「津島氏」が祖神を祀ったとも言われています。『新撰姓氏録』には関係する氏族として次の氏族が登載されています。
- 摂津国神別「津島朝臣」(津速魂命の三世孫、天児屋根命の後)
- 摂津国未定雑姓「津島直」(天児屋根命の十四世孫、雷大臣命の後)
後者は未定雑姓とはいえ前者と同様にアメノコヤネを祖とする中臣系の氏族であり、両氏は同系統と思われます。河内国には見えないものの、彼ら中臣系の氏族が当地に居住していた可能性は十分考えられます。
一方、『延喜式』臨時祭に卜部は伊豆・壱岐・対馬の卜術に優れた者を取るとあり、中でも対馬は特に亀卜に優れた人々がいたとされています。
彼らの卜占の技術が朝廷に重んじられるようになるに従い、対馬で卜占を行っていた集団が祭祀氏族である中臣氏の配下に入り、上記の「津島朝臣」や「津島直」へと再編されたことが考えられます。
そうした対馬出身の卜占の専門家が「対馬江」へ移住し、卜占技術者集団の一大拠点となっていたのかもしれません。
とはいえ、手がかりは地名以外に何も無いのが現状で、対馬江の地名も単純に旧淀川の中州を津島と呼んだことにあるとする説もあります。
ただ、御祭神に「津嶋女大神」なる女神を祀るのは気になるところです。記紀には見えない神であり、或いは対馬で卜占を行った巫女を神格化した神である可能性も考えられます。
周囲は宅地化された地ですが、このように見てみると意外に壮大な歴史が眠っている神社かもしれません。
境内の様子
境内入口。鳥居は東向きに建ち、石畳が社殿まで一直線に伸びています。
境内は巨樹があるものの木々は疎らなため、奥まで開放感ある神社となっています。
鳥居をくぐって右側(北側)に手水舎。手水鉢にはかつての当社の呼称である「大宮天満宮」と刻まれています。
また参道途中の右側(北側)に牛の石像が置かれています。かつて天満宮と呼ばれ天神信仰の神社だったことを今に伝えるものです。
参道を進むと正面に社殿が東向きに並び、社前には注連柱が配されています。
拝殿は銅板葺の平入入母屋造に大きな唐破風の向拝が付いたもの。拝殿前のやたら笠の大きい灯籠は元禄十二年(1699年)のもの。
拝殿前に配置されている花崗岩製の狛犬。
拝殿後方に建つ本殿は銅板葺の流造で、幣殿で拝殿と繋がっている権現造のような形式です。
参道途中の左側(南側)に「天照皇大宮」が鎮座。天照大神を祀ると思われますが、北向きに祀られるのはやや珍しいように思われます。
拝所が設けられ、奥に銅板葺の神明造の社殿が建っています。
対して、参道途中の右側(北側)には「白龍稲荷大神」が南向きに鎮座。
二基の朱鳥居が建ち、緩やかな石段の先に銅板葺で彩色の施された一間社流造の社殿が建っています。
本社社殿の北側にも境内社が三社ほど南向きに鎮座しています。
これらの境内社の内、最も手前側(東側)に「若宮天満宮」が鎮座。御祭神は「菅原道真公」。
社殿は銅板葺の一間社流造。
若宮天満宮の左隣(西側)に「山王戎神社」が鎮座。御祭神は「大山咋命」「恵比寿神」。
社殿は銅板葺流れ見世棚造。
山王戎神社の左隣(西側)に「厳島神社」が鎮座。御祭神は「市杵島姫命」。
社殿は銅板葺流れ見世棚造。
境内の木々は守口市の保存樹林として指定されていますが、それにしては木々の疎らな印象があります。
逆に考えれば日差しに恵まれた明るい境内とも言え、宅地化された当地における貴重な憩いの場となっているのでしょう。
由緒
案内板
式内 津嶋部神社
『河内名所図会』
地図