社号 | 烏帽子形八幡神社 |
読み | えぼしがたはちまん |
通称 | |
旧呼称 | 上田八幡宮 等 |
鎮座地 | 大阪府河内長野市喜多町 |
旧国郡 | 河内国錦部郡喜多村(上田村) |
御祭神 | 素盞鳴命、足仲彦命、神功皇后、応神天皇 |
社格 | 旧村社 |
例祭 | 10月第2土曜、日曜 |
烏帽子形八幡神社の概要
大阪府河内長野市喜多町に鎮座する神社です。
社伝によれば、当社背後に聳える烏帽子形山にあった「烏帽子形城」に楠小二郎が入城した際にその鎮護として創建されたと伝えられています。
「烏帽子形城」とは楠木正成が鎌倉幕府に抵抗すべく南河内に築城した七つの城塞「楠木七城」の一つだったと伝承されています。その築城年代は元弘二年 / 正慶元年(1332年)と伝えられており、社伝に従うならこれ以降の創建となります。
ただ、当社創建後に開基されたという天台宗の神宮寺「徳寿院蒿福寺」は、その梵鐘が奈良県五條市西吉野町賀名生の堀家に伝えられており、その銘文には康元元年(1256年)の銘が見え、矛盾が生じることになります。
社伝よりも古くから当社が存在していたか、もしくは先に蒿福寺が存在し、その鎮守として当社が創建されたことが考えられるかもしれません。
なお、この蒿福寺は明治の神仏分離により廃寺となっています。
当社の本殿は文明十二年(1480年)に石川八郎左衛門尉なる者が建立したといい、その後荒廃したものの、元和三年(1617年)に楠木氏の後裔であるという甲斐庄喜右衛門正保なる人物が四天王寺の普請奉行を務めた際にその余った材で改修したとされています。
この本殿は室町時代の特徴の残る貴重な建築として国指定重要文化財となっています。
近隣にも長野町に国重文建築のある「長野神社」があり、またすぐ南東には高野街道の宿場町だった三日市の町並みも残り、当地付近は河内長野市の中心の至近でありながら歴史を感じられる一帯として人々に親しまれています。
境内の様子
当社は烏帽子形山の東側中腹に鎮座しています。東麓に境内入口があり、注連柱と一の鳥居が東向きに建っています。
鳥居の両脇に配置されている狛犬。
一の鳥居をくぐった様子。鬱蒼とした社叢に覆われた斜面上に長い石段が続いています。
石段途中にある境内社は後述。
石段上には桟瓦葺の平入入母屋造の大規模な割拝殿が東向きに建っています。
段違い屋根となっており、右側(北側)の大きな部屋は社務所(もしくは参籠所?)を兼ねています。
割拝殿の通路をくぐると南北方向に長い空間となっており、正面奥に二の鳥居、銅板葺・平入切妻造の中門(拝所)、本殿等が東向きに並んでいます。
二の鳥居の左側(南側)に手水鉢が配置されています。
中門の奥、塀に囲われて朱塗りの本殿が建っています。
この本殿は形式上は檜皮葺の三間社入母屋造になるものの極めて変則的で、正面全体が縋破風状の向拝になっており流造のように前面へ長く伸びています。
入母屋造と流造の折衷とでも言うべきもので、他に類例を見ない珍しいものです。
この建築は棟札や棟束の墨書から文明十二年(1480年)の建立とされ、元和三年(1617年)に四天王寺普請の余材によって改修されています。
貴重な中世の遺構として国指定重要文化財となっています。
案内板
国指定重要文化財
烏帽子形八幡神社本殿
本社本殿の右側(北側)に隣接して「白山神社」が東向きに鎮座。
社殿は銅板葺の春日見世棚造。
本社本殿の左側(南側)に小高い空間があり、ここに二社の境内社が鎮座しています。
この空間の右側(北側 / 本社本殿に近い側)に「比良野社」が東向きに鎮座。
社殿は銅板葺の一間社流造。
比良野社の左側(南側)には神庫が建っています。
神庫の左側(南側)に隣接して「烏帽子形稲荷社」が東向きに鎮座。
四基の朱鳥居の奥に銅板葺・流見世棚造の朱塗りの社殿が建っています。
道を戻ります。割拝殿の下側、石段途中の右側(北側)に「烏帽子形恵比須社」が南向きに鎮座。
鳥居が建ち、奥に銅板葺の一間社流造の社殿が建っています。
烏帽子形恵比須社の向かいに建つ桟瓦葺・平入切妻造の建物。詳細不明。
こちらも参籠所のようなものでしょうか。
由緒
案内板
烏帽子形八幡神社
案内板
烏帽子形城跡
地図
関係する寺社等
長野神社 (大阪府河内長野市長野町)
社号 長野神社 読み ながの 通称 長野戎 等 旧呼称 木屋堂宮、牛頭天王宮 等 鎮座地 大阪府河内長野市長野町 旧国郡 河内国錦部郡長野村 御祭神 素盞嗚命 社格 旧村社 例祭 10月11日 &nb ...
続きを見る