社号 | 彌刀神社 |
読み | みと |
通称 | 弥刀神社 等 |
旧呼称 | 牛頭天王 等 |
鎮座地 | 大阪府東大阪市近江堂 |
旧国郡 | 河内国若江郡近江堂村 |
御祭神 | 速秋津日子神、速秋津比売神 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月20日 |
式内社
彌刀神社の概要
大阪府東大阪市近江堂に鎮座する式内社です。
当社の創建は詳らかでありませんが、社伝では天平宝字六年(762年)に大和川の長瀬堤が決壊したことにより社殿が流出したことが伝えられています。
『続日本紀』の同年六月二十一日条に長瀬堤が決壊し、二万二千二百人余りを動員して修理したことが記されており、社伝はこれを受けたものでしょう。
一説に当地の地名「近江堂(オウミドウ)」は「大水戸」が転訛したものとされ、当社が式内社とされる論拠にもなっています。
仮にそうであったならば、まさに当地は大和川が草香江(古代河内湖)に注ぐ「水戸」であり、また船着き場としての「港=水戸」でもあったのでしょう。社伝では高天原より天下った神々が大和川を経て大和へ入る時、水戸の神の許しを得たとも伝えています。
江戸時代には「牛頭天王」を祀る神社でしたが、現在は「速秋津日子神」「速秋津比売神」を祀っています。
両神は国産みの段で生まれた神で、記紀では文字通り「水戸の神」とあります。
明治の神仏分離にあたって新たに選ばれた祭神と思われますが、当社の「彌刀」が前述のように「水戸」であるなら確かに相応しい神であると言えます。
昔のことなので不明な部分が多く、当地が本当に「水戸」に相応しい地だったかは何とも言えません。
もし当地がまさしく「水戸」の地だったとしても、『延喜式』の時代は土砂の堆積によって河内湖はかなり縮小したものだったと思われ、「水戸」の記憶は遠いものだったことでしょう。
音読みで「彌刀」の字が充てられたのも、「水戸」であることが忘れられ社名のみが伝わっていたからなのかもしれません。
ただ旧大和川沿いに鎮座しており、川のあった西の方を向いているので、水に関係する神社だとする感覚は長らく伝えられていたのかもしれません。
境内の様子
境内入口。西向きの鳥居が建ち、近鉄大阪線の線路がすぐ側を走っています。かつては大和川がすぐ側を流れていたことでしょう。
鳥居をくぐると石畳敷の長い参道。
参道の左側(北側)に手水舎があります。
手水舎の横に獅子(?)のレリーフも。
正面やや右寄りに社殿が西向きに建っています。
拝殿は銅板葺の平入入母屋造に千鳥破風と向拝が付いたもの。
透塀と木々に囲われてわかりにくいですが本殿は銅板葺の春日造のようです。
本社社殿の右隣(南側)に「八坂神社」が西向きに鎮座。御祭神は「素盞嗚命」。
社殿は江戸時代中期の一間社春日造で、東大阪市指定有形文化財となっています。
本社は江戸時代には牛頭天王と呼ばれたため、或いは明治の神仏分離の際にこちらに遷し、牛頭天王と同格の神道の神である素盞嗚命に替えて祀ったのでしょうか。
となれば本社の旧本殿だったのかもしれません。
八坂神社と相対するように東向きに「常世神社」が鎮座。御祭神は「大己貴命」。
社伝は銅板葺の一間社春日造。オオナムチを祀る神社が「常世」と名付けられるのは珍しいように思われます。
由緒
案内板「彌刀神社」
諸事情により省略
『河内名所図会』
地図