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粟嶋神社 (和歌山県海南市下津町方)

社号粟嶋神社
読みあわしま
通称
旧呼称
鎮座地和歌山県海南市下津町方
旧国郡紀伊国海部郡方村
御祭神少毘古那神
社格旧村社
例祭10月13日

 

粟嶋神社の概要

和歌山県海南市下津町方に鎮座する神社です。

社伝によれば、景行天皇二年に「少毘古那(スクナヒコナ)神」が硯浦(現在地の北西約700m、硯大橋のある辺りか)に漂着し、当時21戸の村人らがこれを祀ったのが始まりであると伝えられています。現在もその21戸の子孫が「大頭講」と称する宮座を構成し祭祀を継承しています。

当初の鎮座地は硯浦の森だったとも海中だったともいい、この点は伝承が錯綜しています。

後者の海中にあったとする伝承の方が根強いようで、当初は干潮時に干潟を伝って参詣したと具体的な様子が伝えられています。

また神功皇后の三韓征伐に関連して次のようにも伝えられています。

  • 神功皇后が征伐の途次に産気づいたため凱旋まで出産しないよう当社へ祈願した。
  • その際に風浪のために勅使が参詣できず離れた地から奉幣した。
  • 凱旋の後に船中にて応神天皇を出産し、その感謝のために矢の根で「大国主神」「少名毘古那神」二柱の神像を舟板に彫り、帰朝後これを当社へ奉納した。

この時に奉納されたという舟板や陣太鼓、綾の舞衣は現在も神宝として伝わっているといい、また勅使が奉幣したとされる地は現在も当社の飛び地境内となっています。

『日本書紀』には神功皇后の凱旋の際に忍熊王らの叛乱に対応するため紀伊へ向かったことが記されており、これに関連して紀伊北部の沿岸部では神功皇后の伝承が広く伝わっています。

当社における神功皇后の伝承もこれに付会したものと考えられますが、風浪のために参詣できなかったとする点はやはり当社の神が海中に鎮座していたことを示すものなのでしょう。

 

一方、江戸時代後期の地誌『紀伊続風土記』によれば当社は和歌山市加太の「淡嶋神社」から勧請したのであろうとしています。

社名の読みや祭神が同一であることに加え、地名も「方(カタ)」と「加太(カダ)」で類似しており、少なくとも両社の間に何らかの接点があったものと考えるのが自然でしょう。

或いは景行天皇二年云々の伝承は、後世に当地の21戸の村人が「淡嶋神社」の神を当地へ勧請したのを遡って伝えているものかもしれません。

なお、紀伊国の国内神名帳『紀伊国神名帳』の海部郡に「従四位上 粟島大神」が見え、これは一般に和歌山市加太の「淡嶋神社」とされています。しかし名草郡地祇に見える「加七七(多?)神」が和歌山市加太の「淡嶋神社」とも考えられ、その場合「粟島大神」が当社を指していた可能性も考えられます。

後述のように当社は鎌倉時代には既に存在していたようで、当社がかなり古くから鎮座していたことも十分考えられるでしょう。

 

中世以降の当社について、文永年間(1264年~1275年)に硯浦から丘の北東中腹である現在地に遷座したといい、当地にあった荘園「浜中荘」の領主だった京都の「仁和寺」から社地が寄進されたことが『仁和寺古文書』にも見えるようです。

江戸時代中期以降は「淡嶋願人(がんにん)」らの活躍により和歌山市加太の「淡嶋神社」を本宮とする淡嶋信仰が盛んになります。同じ信仰に基づくと思しき当社でも非常に厚く信仰されたようで、遥か遠く豊後国(現在の大分県)から宝永四年(1707年)に奉納された金幣や、上野国(現在の群馬県)から寛政九年(1797年)に奉納された神橋が現存しています。

現在は和歌山市加太の「淡嶋神社」が広く知れ渡っているのに対し、当社はひっそりとした地域の神社となっているものの、現在も人形が奉納されて毎年4月3日にひな祭が行われる等、淡嶋信仰の神社として厚く崇敬されています。

 

境内の様子

当社の一の鳥居は境内の280mほど東方に東向きに建っています。

道脇に建っているので鳥居奥はみかん畑になっており、参道とはなっていないので遥拝所的な位置付けでしょう。

 

一の鳥居の両脇に配置されている狛犬。花崗岩製です。

 

一の鳥居横の道を西へ進んでいくと当社の境内が見えてきます。

 

境内の手前左側(南側)に石造の反橋である「神橋」が設けられています。

これは寛政九年(1797年)に上野国山田郡(現在の群馬県桐生市)から奉納されたもので、かつての当社の信仰圏の広さと信仰の厚さを物語るものとなっています。

元は社前を流れる宮川に架かっていたものの平成二年(1990年)の改修の際に現在地に移されました。海南市指定文化財

石碑

粟嶋神社「神橋」

 

当社境内は玉垣が並び、入口には二の鳥居が東向きに建っています。

 

二の鳥居の両脇に配置されている狛犬。こちらは砂岩製でしょうか。

 

鳥居をくぐった境内の様子。手前側は広場となっており、正面奥に丘の中腹へ上る長い石段が伸びています。

 

石段下の右側(北側)に二槽の手水鉢が配置されています。

 

石段を上って正面奥に社殿が東向きに並んでいます。

拝殿は銅板葺の迎唐門形式となっており、そのすぐ後方に銅板葺の平入切妻造の幣殿が建っています。

拝殿よりも幣殿の方が大規模な建築となっています。

 

海に関する神社らしく、拝殿にはシャコガイらしき貝殻が掲げられていました。

 

石段下のものとは別に、本社拝殿右側(北側)にも手水鉢が設置されています。

 

幣殿の後方に建つ本殿は銅板葺の一間社隅木入春日造。本殿の左右には下記のように四社の境内社が東向きに鎮座しています。

本社本殿の左側(南側)に隣接して「蛭子神社」が鎮座。社殿は銅板葺の一間社隅木入春日造。

さらに蛭子神社の左側(南側)に隣接して「濱ノ宮神社」が鎮座。社殿は銅板葺の春日見世棚造。

 

反対側、本社本殿の右側(北側)に隣接して「八幡神社」が鎮座。社殿は銅板葺の一間社隅木入春日造。

さらに八幡神社の右側(北側)に隣接して「百体神社」が鎮座。社殿は銅板葺の春日見世棚造。

 

本社拝殿手前の左側(南側)に、一つの覆屋に三社の境内社が納められて北向きに鎮座しています。

これらの境内社は左側(東側)から順に次の通り。

  • 金比羅神社
  • 傳神社」「八坂神社」の相殿
  • 稲荷神社

社殿はいずれも銅板葺の春日見世棚造ですが規模は全て異なっています。

 

反対側、本社拝殿の手前右側(北側)にも三社の境内社が南向きに鎮座しています。こちらには覆屋はありません。

これらの境内社は左側(西側)から順に次の通り。

  • 厳島神社」「辨財天神社」の相殿(社殿:銅板葺の春日見世棚造)
  • 戎神社」「濱戎神社」「牛神神社」の相殿(社殿:銅板葺の流見世棚造)
  • 道祖神社」(社殿:銅板葺の春日見世棚造)

 

道を戻ります。

石段下の左側(南側)に宝物殿が、さらにその左側(南側)に倉庫のような建物があり、後者には人形やぬいぐるみ等が納められています。

恐らく和歌山市加太の「淡嶋神社」と同様、不要になった人形等が奉納されているのでしょう。

 

人形等の納められた倉庫の左側(東側)に桟瓦葺の入母屋造の神楽殿が建っています。

二間四方の大規模なもの。ここで神事等が行われるのでしょうか。

 

石段下の右側(北側)には当社の神宮寺だった「淡嶋山龍泉寺」があります。

本堂は本瓦葺の宝形造で向拝の付いたもの。明治の神仏分離においても毀釈されずに残ったもののようです。

境内の手前側に寺院が、奥側に神社が配される例は九度山町慈尊院に鎮座する「丹生官省符神社」や紀の川市粉河の「粉河産土神社」でも見られ、紀伊では比較的多い配置なのかもしれません。

 

タマヨリ姫
アワシマ神社っていえば加太が有名だけどこっちもお人形が奉納されてるんだ!
昔はこちらもかなり広く信仰されたみたいよ。江戸時代にかなり遠くから奉納された金幣や石橋が残っているわ。
トヨタマ姫

 

由緒

案内板

粟嶋神社由緒

石碑

粟島神社由緒碑

 

地図

和歌山県海南市下津町方

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