社号 | 伊和志津神社 |
読み | いわしづ |
通称 | |
旧呼称 | 牛頭天王 等 |
鎮座地 | 兵庫県宝塚市伊孑志1丁目 |
旧国郡 | 摂津国武庫郡伊孑志村 |
御祭神 | 須佐之男命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月23日、24日 |
伊和志津神社の概要
兵庫県宝塚市伊孑志に鎮座する式内社です。西宮市大社町に鎮座する廣田神社の境内社「伊和志豆神社」と共に式内社「伊和志豆神社」の論社となっています。
『延喜式』神名帳には大社とありますが、これは前項の名次神社の誤りである可能性が指摘されています。
当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、地名「伊孑志(イソシ)」から古代氏族の「伊蘇志氏」が当社と関係があるとする説があります。
『新撰姓氏録』大和国神別に天道根命の後裔であり滋野宿祢と同祖であるという「伊蘇志臣」が登載されています。摂津国には登載されていませんが、『三代実録』貞観元年(859年)十一月十九日の条に同族の「摂津守滋野朝臣貞雄」が見えます。彼ら伊蘇志氏・滋野氏が祖神を祀って奉斎したのが当社であることが一つの説として考えられます。
もしそうならば本来の御祭神は伊蘇志氏らの祖「天道根命」だったことでしょう。天道根命は神魂神の五世孫で、『先代旧事本紀』には饒速日尊の降臨に随伴した神々の一柱として登場します。伊蘇志氏・滋野氏の他に紀伊国造も天道根命を祖としています。
しかし江戸時代には当社は「牛頭天王」と呼ばれていました。現在の御祭神が「須佐之男命」となっているのも明治の神仏分離により仏教色を排する為に牛頭天王に代わって称されるようになったものです。
当社が式内社「伊和志豆神社」に比定されたのは伊孑志の地名からの連想であると思われます。江戸時代中期の地誌『摂津志』などは当社に比定している一方、廣田神社境内社の伊和志豆神社(近世は境外社の鰯津社)に比定する説も古くから多くありました。
上述のように伊孑志が伊蘇志氏に因むのであれば、この地名が「伊和志豆」と結びつくと考えるのは考えにくいため、当社が式内社であると主張することはやや難しそうです。廣田神社境内社の伊和志豆神社は古くから「鰯津(イワシツ)社」と呼ばれていたことが記録からも確かめられるため、式内社「伊和志豆神社」は後者に比定するのが妥当と言えるかもしれません。
とはいえ伊孑志が古代氏族の伊蘇志氏に因むならそれはそれで古いものであり、当社の歴史の古さを担保するものであると言えましょう。
境内の様子
境内入口。境内の東端に位置の鳥居が東向きに建っています。
境内は鬱蒼とした森で覆われており、スギの巨樹などがよく目立ちます。これら境内の木々は宝塚市指定保存樹林となっています。
社叢の中の参道を進むと二の鳥居が建っています。年代は不詳ですが、阪神大震災の被害の大きかったこの地域には珍しく古そうな花崗岩製の鳥居です。
さらに進むと石段があります。当社の境内は南北に大きな道路が貫いているので東西の区画に分割されており、両区域を結ぶために石段と橋が設けられているのです。
この橋を渡ると社殿等の建つ主要な区画へ到達できます。
橋の石段を下りて右側(北側)に手水舎があります。
正面には真新しい社殿が東向きに建っています。
拝殿は銅板葺の平入入母屋造で千鳥破風と唐破風付きの向拝の付いたもの。
本殿は見ることができませんが、江戸時代中期頃に建立された小規模な杮葺一間社春日造で宝塚市指定文化財となっています。
拝殿前には二対の狛犬が配置されています。手前側の狛犬は真新しい花崗岩製のもの。大きな頭が特徴的です。
何故か狛犬前に釜が配置されていました。神事で用いるのでしょうか。
後ろ側の狛犬は砂岩製のやや古そうなもの。がっしりとした体形が特徴的。
境内社は本社社殿の右側(北側)の空間にまとまって鎮座しています。
本社本殿の右側(北側)に隣接して鎮座するのは「宝塚水天宮」。東向きに建っています。水天宮は安徳天皇と平家一門の霊を祀ったことに始まる神社で、福岡県久留米市の「水天宮」を本宮としています。畿内ではやや珍しい神社です。
宝塚水天宮の右側(北側)に隣接して「愛宕社」が東向きに鎮座しています。
愛宕社の向かい(東側)に五基の石祠が一つの覆屋に納められています。南向きに建っており、石祠は左側からそれぞれ次の神社となっています。
- 「大将軍社」
- 「山神社」
- 「天照皇大神宮」
- 「春日大明神」
- 「八幡宮」
覆屋の右側(東側)に隣接してお堂があり、石仏や五輪塔などが安置されています。
御朱印
由緒
案内板
伊和志津神社
案内板
【宝塚市指定文化財】伊和志津神社本殿
地図