社号 | 野見神社 |
読み | のみ |
通称 | |
旧呼称 | 牛頭天王社 等 |
鎮座地 | 大阪府高槻市野見町 |
旧国郡 | 摂津国島上郡高槻村 |
御祭神 | 須佐之男命、野見宿禰命 |
社格 | 式内論社、旧郷社 |
例祭 | 10月第2月曜日 |
式内社
野見神社の概要
大阪府高槻市野見町に鎮座する神社です。高槻市天神町に鎮座する上宮天満宮の境内社「野身神社」と共に式内社「野身神社」の論社となっていますが、後述のように根拠はなく、当社が式内社である可能性は高くありません。
社伝によれば、宇多天皇の御代にこの地に疫病が流行って多くの死者が出たとき、神託により牛頭天王を祀ったところ疫病はたちまち終息し、社殿を造営して「牛頭天王社」を創建したのが当社の始めです。
その後、中世には高槻城の城内に祀られ城の守護神として信仰され、特に高槻城主の入江氏や和田氏の崇敬が厚かったと言われています。
しかしキリシタン大名となった高山右近は各地の寺社を破壊し、当社も大きな被害を受けたため一時御神体を京都府八幡市の石清水八幡宮へ避難させたと伝えられています。
元和五年(1619年)に高槻城主となった松平家信は当社を高槻城下の三の丸の一角に再建し再び高槻城の守護神として信仰されるようになりました。
慶安二年(1649年)以降高槻城主となった永井氏も殊の外当社を崇敬し、第九代の永井直進は初代藩主「永井直清」を御祭神とする「永井神社」を当社の境内に創建しています。
当社は一貫して「牛頭天王社」として祀られてきましたが、明治の神仏分離により祭神を「須佐之男命」に変更し、さらにどういうわけか土師氏の祖神である「野見宿禰命」を新たに祭神に加え社名も「野見神社」に改称しました。
上宮天満宮の境内社「野身神社」に土師氏とゆかりがあり式内社として説得力がある一方、当社が式内社だとする根拠はありません。
ただ江戸時代の地誌『摂津名所図会』には既に当社について「野身神社」と見え、当社が式内社であるとする説が江戸時代にあったことが示唆されています。
当社は高槻城の守護神として祀られてきた歴史があり、高槻において極めて重要な神社だったのは間違いありません。現在も高槻市の代表的な神社の一つとして多くの人が参拝に訪れます。
境内の様子
境内入口は境内の南東にあり、鳥居が東向きに建っています。
鳥居をくぐってすぐ右側(北側)に手水舎があります。
鳥居をくぐった様子。石畳の参道が敷かれており、途中二ヶ所で右側(北側)へ分岐しています。手前側の分岐は境内社の永井神社へ、奥側の分岐は本社社殿へ続きます。
石畳の奥側の分岐を曲がって進むと正面に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は瓦葺・平入入母屋造に唐破風の向拝が付いたもので、妻側には庇が伸びて部屋が設けられています。かなり新しい建築。
拝殿前の狛犬。黒っぽい砂岩製で古めかしいものです。上下に潰れたような顔つきが特徴的。
拝殿の後方には瓦葺・妻入入母屋造の本殿覆屋が建っています。
境内の南西、鳥居からの石畳をまっすぐ進んだ先に「高槻戎神社」が東向きに鎮座。
昭和三十一年(1956年)の創建と新しい神社です。
高槻戎神社の右側(北側)に能舞台があります。この規模の神社にしてはかなり立派なもの。
本社拝殿の左側(西側)に「護国神社」が東向きに鎮座。
本社社殿の左奥(北西)に「四社明神」が南向きに鎮座。近世以前から当社の末社として鎮座していた四社を大正年間に一つの社殿に相殿として祀ったものと言われています。祀られているのは左から次の通り。
- 「祖霊社」(歴代宮司、神官、神社にゆかりのある人々等を祀る)
- 「磐神社」(御祭神「八衢比古神」「八衢姫神」「久那斗神」)
- 「稲荷社」(御祭神「宇迦之御魂神」)
- 「福神社」(御祭神「志那都比古神」「志那都姫神」「火産霊」「金山比古神」「金山姫神」「埴山比古神」「弥都波能売神」)
本社社殿の後方(北側)には石仏を安置した小さなお堂が二基配置されています。
本社社殿の右奥(北東)に池があり、そこに浮かぶ島に「小島神社」が南向きに鎮座。御祭神は「市杵島姫命」「大己貴命」「磐長姫命」「天児屋根命」。
昔旱魃があり、人々が困っているところに神のお告げがあり、その地に湧く清水を使ったところ田畑が実ったのでその場所に社殿を建てたと伝えられています。
また一説には、かつて高槻城の築城前にあった小丘「粂治山」の近く「瀧ヶ淵」に住んだ大蛇を龍神として祀っていたとも言われています。
元々は高槻城の堀の中に祀られていましたが明治四十一年(1908年)に当地に遷座。
永井神社
本社社殿の右側(東側)に「永井神社」が南向きに鎮座しています。
寛政五年(1793年)に高槻藩の第九代藩主「永井直進」が初代藩主「永井直清」を祀って創建し、さらに嘉永元年(1848)に永井氏の高槻城入城200周年を記念して社殿の修復と整備が行なわれました。
手前に鳥居が建ち、その奥には瓦葺妻入の唐破風屋根の四脚門(唐門)が建っています。精巧な彫刻等が見られる貴重な建築で高槻市指定有形文化財となっています。
唐門の後方に社殿が並んでいます。これらの社殿も高槻市指定有形文化財です。
拝殿は瓦葺・平入入母屋造で唐破風の向拝が付いています。
蟇股などに趣向を凝らした彫刻が見られ、当時の高槻藩の贅を尽くしたことが窺われます。
拝殿前の狛犬。砂岩製でこちらもやや古そうなものです。
拝殿後方には瓦葺・平入切妻造の四方に裳階の付いた本殿の覆屋が建っています。
案内板
永井神社(野見町)
高槻城
当社の社地を含む一帯は高槻城の跡地です。高槻城の歴史は非常に古く10世紀には存在していたとも言われています。
慶安二年(1649年)に永井氏が入封して以降は明治の廃藩置県まで城主を務めました。
現在、当社の南東300mほどの地が城跡公園として整備されています。ただ、現在見られる石垣等は当時の遺構でなく、現代においてそれっぽく再現したもののようです。
城跡公園内に高槻市立民俗資料館があり、この建物はかつて城下町である旧・紺屋町にあった旧笹井家住宅を移築したものです。江戸時代中頃に建てられたもので、豪快な妻入の本瓦葺の屋根が特徴的です。
また当社の近隣には現在も古い民家が数多くあり、駅に近い地でありながら高槻城の城下町の雰囲気を今もよく伝えています。
御朱印
由緒
案内板
野見神社 由緒
『摂津名所図会』
地図