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茨木神社 (大阪府茨木市元町)

社号 茨木神社
読み いばらき
通称
旧呼称 牛頭天王社 等
鎮座地 大阪府茨木市元町
旧国郡 摂津国島下郡茨木村
御祭神 茨木神社:建速素盞嗚尊、天児屋根命、誉田別命/天石門別神社:天手力男命、天宇受売命、豊国神、東照神
社格 式内社、旧郷社
例祭 10月10日

 

茨木神社の概要

大阪府茨木市元町に鎮座する神社です。当社は境内の手前側に「茨木神社」の社殿が、その後方に奥宮として式内社の「天石門別神社」の社殿が建つ独特の配置となっています。

社伝によれば、大同二年(807年)に坂上田村麻呂が荊切(いばらき)の里を作ったときに天石門別神社が鎮座されたと伝えられています。当初の社地は現在地の北東400mほどの宮元町付近だったと言われ、長らくその地に鎮座していたようですが、楠木正成が砦を築き、後に茨木の地が城下町へと変貌を遂げていくに従いいつの頃か当社も現在地に遷座されたと伝えられています。

また社伝によれば、その後当地を支配した高槻城主の高山右近がキリスト教を信奉し神社仏閣を焼き払った際に、織田信長が天照大神・春日大神・八幡大神・牛頭天王は焼くべからずとしたので、当社も牛頭天王を祀ると偽って焼却を免れたと伝えられています。

織田信長が畿内に攻め入った際に信長の信仰していた牛頭天王を祀ると偽ることで焼き打ちを免れたとする伝承を持つ寺社は摂津国で広く見られます。そのような事実があったかは何とも言えないところで、牛頭天王の持つ厄除けの力を民衆が厚く信仰し各地に広まったことも十分に考えられます。どのような経緯があれ、新しい神が勧請されて本来の祭神が忘れられることは普遍的にありました。

ただ、当社の場合は極めて特殊で、新たに牛頭天王が祀られるようになっても天石門別神社は忘れられなかったようです。元和八年(1622年)に「牛頭天王」「春日大神」「八幡大神」を祀る社殿を新たに築いて本殿とし、奥宮として「天石門別神社」を祀る現在の形式となったと伝えられています。

これより少し前、天正十年(1582年)に「天石門別神社」から禁制が出されたとされ、少なくともこの時代まで天石門別神社として祭祀が継続していたらしいことから、忘却されず新しい神と共存するという形で復活したことが推測されます。

明治年間に至り、近代社格制度において茨木神社が郷社に列せられましたが、氏子の間で天石門別神社にも社格を授与するよう嘆願運動が起こり、後に天石門別神社も郷社に列せられるに至りました。一つの境内に二社の郷社があることになり、珍しいものでした。天石門別神社は単なる茨木神社の境内社に収まるべきでないとする地元民の熱烈な意向によるものだったのでしょう。

さて、天石門別神社は現在「天手力男命」他三柱を祀っています。『古事記』には天孫降臨の段で邇邇芸命に従った神々の中に「手力男神」と「天石門別神」が見えます。このことから手力男神とは別に「天石門別神」があったことがわかり、社名から推して本来はこの神が祀られていたことと思われます。『古事記』には天石門別神の別名として「櫛石窓神」「豊石窓神」と言うとあり、この神は『延喜式』宮中神、神祇官西院に祀られる神としても記載されています。

ただ、この神が何故この地で祀られたのかは不明としか言いようがありません。文字通り門を守護する神であり、交通の要衝として災厄や悪霊を防ぐ意図があったのかもしれません。

いずれにせよ、「茨木」の名を冠することからもわかる通り、現在は大阪府でも有数の都市である茨木市の代表的な神社となっています。茨木市民の心の拠所として今なお多くの参拝客を集める神社です。

 

境内の様子

境内入口。鳥居が南向きに建っています。

当社境内の西方に隣接してかつての茨木川の河道跡があります。旧茨木川は天井川だったため、境内入口の前の道は堤防を越えるべく高くなっており、このために当社は「下り宮」の様相となっています。旧茨木川は昭和十年(1935年)の水害により付け替えられ、上流側で安威川に合流するようになりました。

 

鳥居をくぐった様子。石畳敷きの長い参道が続いています。茨木市の市街地にあり、当市の代表的な神社なので参拝客が絶えません。

 

参道途中の狛犬。花崗岩製です。

 

参道を進んでいくと左側(西側)に手水舎があります。

背後で崖状になっているのは旧茨木川の堤防です。天井川だったのでかなりの高さがあります。

 

茨木神社

茨木神社

参道の正面の基壇上に社殿が南向きに並んでいます。拝殿は銅板葺・平入入母屋造に唐破風が付いたもの。

『摂津名所図会』の挿絵には基壇上に拝殿が無く、瑞垣が廻らされて正面に拝所を設けた様子が描かれています。

なお当社は2018年の大阪北部地震の被害が激しく、その痕跡で2019年参拝時には石段前の左右にあった灯籠が撤去されていました。

 

拝殿前の狛犬。こちらは砂岩製です。古くからのものでしょう。

 

拝殿後方は瑞垣に囲まれて銅板葺流造の本殿が建っています。

 

天石門別神社

天石門別神社

天石門別神社

本社社殿の後方(北側)の空間に奥宮として式内社の「天石門別神社」が鎮座しています。御祭神は「天手力男命」「天宇受売命」「豊国神」「東照神」。

鳥居の後方に玉垣に囲まれて妻入の神明造に似た切妻造の社殿が建っています。これは覆屋のようで、中央に春日造、左右に流造の本殿が納められているようです。

当社社殿の床下に「赤井」と呼ばれる井戸があるらしく、これに関連してか社殿前に酒樽が積まれています。

 

天石門別神社社殿前の狛犬。砂岩製でこちらも古いものと思われます。

 

本社社殿と天石門別神社社殿の位置関係。このように南北に並んでいることがわかります。

 

その他境内社等

天石門別神社の左側(西側)に「愛宕神社」が鎮座。御祭神は「火産霊命」。

 

天石門別神社の右側(東側)に「皇大神宮」が鎮座。御祭神は「天照大御神」。

妻入切妻造の建物は覆屋で中に本殿が納められています。

なお『摂津名所図会』の挿絵には愛宕神社と天照大神(皇大神宮)が現在と逆の位置に描かれています。入れ替わったか、もしくは誤植なのかもしれません。

 

皇大神宮の左奥(北西)に「稲荷神社」が鎮座。御祭神は「宇迦御魂神」。

 

稲荷神社の左側(西側)、境内の最奥部に「黒井の清水」と呼ばれる井戸があります。豊臣秀吉の茶の湯にも供されたと言われ、天石門別神社社殿床下の「赤井」、宿久庄地区にあるという「青井」と併せて「島下郡三名泉」と呼ばれたようです。

 

道を戻ります。本社社殿前の右側(東側)に西向きに三社の境内社の相殿が鎮座しています。左から順に、

  • 天満宮」(御祭神「菅原道真公」):茨木城の鎮守として祀られたという。元和二年(1616年)茨木城廃城に伴い当社境内へ遷座。
  • 主原神社」(御祭神「天児屋根命」「応神天皇」):旧・主原村の氏神。明治年間に当社境内へ遷座。
  • 多賀神社」(御祭神「伊射那岐尊」):旧・上中条村の氏神。明治年間に当社境内へ遷座。

が祀られています。

 

三社の相殿の左側(北側)に「皇大神社」が鎮座。御祭神は「天照大御神」。

旧・上中条村の氏神で、明治年間に当社境内に遷座しました。

 

参道を戻ります。参道の途中、左側(西側)に境内社が東向きに鎮座しています。社名等は記されていませんが、恐らく「事平神社」と思われます。

 

さらに参道を戻ったところに「恵比須神社」が東向きに鎮座しています。御祭神は「事代主命」「大國主命」。

瓦葺・平入入母屋造の割拝殿に直接本殿が接続しているようです。拝殿内には酒樽が積まれています。

元々は町内の商家で順番に祀っていたのを明治年間に当社境内に新たに社殿を設けて祀ったと言われています。

 

参道途中の右側(東側)には注連縄の張られた一画があります。ここで何らかの神事が行われれるのでしょうか。

 

当社には東側にも参道が伸びています。こちらの参道には東向きの鳥居が建っており、これは明暦元年(1655年)に奉納された古いものです。

茨木の古くからの市街地は茨木神社の東方に広がっており、現在も茨木阪急本通商店街の延長上にあるため、こちらの入口も地元民によく利用されています。

 

東側の鳥居をくぐると正面に瓦葺・妻入切妻造の棟門が建っており、これは元和三年(1617年)に茨木城の廃城にあたり搦手門を移築したものです。特に文化財指定されていませんが、国重文級の建築であるように思われます。

この門をくぐると表参道に合流することになります。

案内板「茨木城搦手門」

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茨木城搦手門

茨木城は、建武年間(1334~1336)に楠正成が築いたと伝えられ、城主はしばしば変わったが特に有名な人物は中川清秀と片桐且元である。

城郭の位置は、現在の茨木小学校付近に本丸があり城郭の跡は残っていないが、わずかに茨木神社東門が茨木城の「搦手門」を移築したものとされている。

その他、大手門・殿町・本丸などの地名や町並みに残るT字路が、かつて城下町であったことをあらわしている。

 

タマヨリ姫
神社の後ろにもう一つ神社が!しかもこっちは式内社なんだって!何だか珍しいね!
そうね。ある時代に新しい神様が祀られたけど、元々祀られてた神社も忘れられずに奥宮として祀られてるみたいね。珍しい例だと思うわ。
トヨタマ姫

 

御朱印

 

由緒

『摂津名所図会』

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天石門別神社

茨木庄にあり。延喜式出。この地の産土神とす。祭神豊磐間戸命。

茨木神祠

同所にあり。祭神中央素盞鳴尊 左春日明神 右八幡宮。茨木庄内上中條下中條の産土神とす。例祭九月十日。

〇因に云。凡て村里の生土神延喜式の神名を喪ひあるいは蔵して牛頭天皇と称し神代の天神を天満天神と呼び又は八幡宮 稲荷 春日と唱ふ事当国に限らず。山城大和にも粗見へたり。土人神名のむつかしきを嫌ひ云馴れたる名高き神号を呼んで一村の生土神と祭ると。世上みなこの義と思へり。愚按ずるに左にあらず。元亀天正の頃織田信長公四海掌握の計策により南蛮国より邪宗門を招き寄せ比叡山を焼討にし大坂本願寺を攻高野山まで亡ぽさんとし給ふ。其より諸社諸山を滅亡する事多し。初めは日蓮宗を信じこの宗徒を以て諸山を滅さんとす。日蓮宗これをいなみしたがはざりしかばまたこの宗徒を追放す。六ヶ年が間この宗門京都に一人もなし。多くは泉州堺津あるいは備前備中の方へ逃げ趨る。織田候亡びて後豊臣公に至りて元の地へ返る。殊に当国は織田方高山右近在城しこの辺の神社仏閣を破却する事多し。然れども神社の中に於て天照太神 祇園牛頭天王 八幡宮 春日 稲荷 天満宮は神国の名神なれば破却する事を恐れしよりこの禍を免る。これによって延喜式の遠き神名を隠して名神の神名にして愁訴し災を免れたるなり。古代の神名のかくれたるは多くこの所謂によるなり。殊に信長の生土和は尾州津島牛頭天皇なり。

 

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