社号 | 吉志部神社 |
読み | きしべ |
通称 | |
旧呼称 | 太神宮、七社明神、八社明神 等 |
鎮座地 | 大阪府吹田市岸部北4丁目 |
旧国郡 | 摂津国島下郡吉志部村 |
御祭神 | 天照皇太神、豊受大神、八幡大菩薩、祇園牛頭天王、稲荷大明神、春日大明神、住吉大明神、恵比須三郎 |
社格 | 旧村社 |
例祭 |
吉志部神社の概要
大阪府吹田市岸部北4丁目に鎮座する神社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
案内板によれば、「崇神天皇の御代に大和の瑞籬より神を奉遷してこの地に祀ったのが創祀」としています。
当地に因むと考えられる氏族として、『新撰姓氏録』摂津国皇別に難波忌寸同祖、大彦命の後であるという「吉志」が登載されています。
この「吉志氏」は系譜上は阿倍氏と同系の皇別氏族であるものの、「キシ」を名乗る氏族は複数の系統があり、いずれも渡来系と見られ、この氏族もまた渡来系氏族を出自としていたものが皇別氏族に組み込まれたことが考えられます。
この皇別氏族の「吉志氏」は後に「難波吉士」を名乗り、新羅へ派遣された「難波吉士磐金」や小野妹子に従い遣隋使として隋へ派遣された「難波吉士雄成」、百済へ派遣された「難波吉士国勝」など、多くの人物が外交関係で活躍しています。
渡来系氏族の出身であり海外の事情に通じていたことが評価されていたのかもしれません。
当地の地名「岸辺(旧・吉志部)」とはこうした「吉志氏」の部民が居住していたことに因むと考えられています。
「吉志氏」は「難波吉士」を名乗ったように浪速を拠点としたと推測され、彼らに率いられた部曲が浪速から程近い当地に居住していたのでしょう。
当社の創建がどこまで遡るかははっきりしないものの、或いは彼らが創建・奉斎したのが当社だったのかもしれません。
なお案内板に「崇神天皇の御代に…」云々とあるのは、恐らく皇別氏族の「吉志氏」の祖「大彦命」が崇神天皇の御代の人物だったことに付会したものと思われます。
また、当社背後の紫金山の斜面には平安時代の瓦窯跡である「吉志部瓦窯跡」が、そして当社社前の東方にはその工房跡があり、平安京造営にあたって瓦を供給したことが知られています。
当地における瓦の生産は国家事業として行われたものと思われるものの、もし当社の創建が平安時代に遡るならば、こうした瓦を生産した人々が当社の祭祀に関わっていたことも考えられそうです。
当社は古く「太神宮」「七社明神」「八社明神」などと称し、「天照大神」をはじめ七柱ないし八柱を祀ってきたようです。
応仁の乱等で兵火に遭ったといい、その都度再建され、慶長十五年(1610年)に建立された七間社流造の本殿は桃山建築の様式を残す貴重な建築として国指定重要文化財となっていました。
しかしこの本殿は平成二十年(2008年)に放火により焼失してしまい、同年に敢無く国重文指定が解除されました。
後に本殿は再建されたものの、全国的に珍しい七間社の本殿だっただけに焼失は極めて残念としか言いようがありません。
現在の御祭神として、中央座に「天照皇太神」「豊受大神」を、左座に「八幡大菩薩」「祇園牛頭天王」「稲荷大明神」を、右座に「春日大明神」「住吉大明神」「恵比須三郎」を祀っています。この表記は案内板に従っており、「大明神」「大菩薩」「牛頭天王」など江戸時代以前の呼称を踏襲しています。
この八柱の内、「豊受大神」は正徳三年(1713年)に勧請したといい、当社が「八社明神」と称するようになったのはこれ以降のことでしょう。
当社は焼失の憂き目に遭ったものの、周辺は古い町並みもよく残っており、再興された当社が変わらず未来へ継承されていくことを願うばかりです。
境内の様子
当社の一の鳥居は境内の400mほど南東の地に南東向きに建っています。
一の鳥居から当社へ向かう長い道は宅地化してるとはいえ、道に沿って松の木が生えており参道や馬場といった趣が感じられます。
さらに道を進むと境内入口に至り、二の鳥居が南東向きに建っています。扁額にはかつての呼称である「太神宮」とあります。
二の鳥居をくぐった先には灯籠と注連柱が配置されています。
鳥居と注連柱をくぐった様子。境内は鬱蒼としており、石畳の参道の奥に石段が伸びています。
境内は丘陵上の立体的な地形となっていることがわかります。
石段下の右側(北東側)に手水舎が建っています。
石段を上ると桟瓦葺の平入入母屋造の建物が建っています。
中央に通路があり、割拝殿とも神門とも言えるものです。形式的には割拝殿の構造なのでここでは割拝殿としておきます。
割拝殿をくぐって左側(南西側)に、石段下のものとはまた別に手水舎が建っています。
いずれも水が湛えられており現役で使用されています。
割拝殿の先は広い空間となっており、この正面奥に社殿が南東向きに並んでいます。
拝殿は本瓦葺の平入入母屋造に唐破風の向拝の付いたもの。
拝殿後方には本殿を納めた巨大な覆屋が建っています。
かつての本殿は慶長十五年(1610年)に建立されたものだったといい、桃山建築の様式も見られる貴重な建築として国指定重要文化財となっていましたが、平成二十年(2008年)に放火により焼失してしまい、同年に国重文指定が解除されました。
旧本殿は全国的に珍しい七間社流造で、千鳥破風と軒唐破風の付いた檜皮葺のものでした。
平成二十三年(2011年)に拝殿と共に新しい本殿が再建され、旧本殿と同様に七間社流造となっているようです。
本社拝殿の右側(北東側)の空間に三社の境内社が南東向きに並んでいます。
これらの内、右側(北東側)に四社の相殿が鎮座。左側(南西側)から順に「天水分神」「事比羅神」「大国主之神」「愛宕之宮」が祀られています。
社殿はRC造の桟瓦葺・二間社流見世棚造。一間分がかなり長くなっています。
四社相殿の左側(南西側)、本社拝殿の右側(北東側)に隣接して大小二社の境内社が鎮座。
この内、左側の大きな神社は「大川神社」とありますが、右側の小さな神社は社名・祭神は不明。
いずれも流造状の覆屋となっており中に社殿が納められているようです。
吉志部瓦窯跡
当社境内の背後にある丘陵「紫金山」の斜面には平安時代の瓦窯跡があり、「吉志部瓦窯跡」として国の史跡に指定されています。
この瓦窯跡は平安京造営の際に瓦を供給したことが知られ、国家事業として運営されていたものと考えられます。
紫金山は公園として整備されており、軽めのハイキングコースとして散歩できるようになっています。
ただ肝心の窯跡は木々や草に完全に埋もれており、想像力を働かせることが求められます。
案内板
登窯(窖窯)
案内板
平窯
吉志部瓦窯跡ではないものの、紫金山の遊歩道沿いに「吹田34号須恵器窯跡」が移築されています。
これは西方約1kmの五月が丘西にあったもので、7世紀初め頃に須恵器を焼いた窯跡です。
吉志部瓦窯跡のみならず、当地付近の千里丘陵では広い範囲で古墳時代後期から須恵器が盛んに生産されていたことが発掘調査で明らかになっています。
案内板
移築された吹田34号須恵器窯跡
紫金山の麓、当社二の鳥居の東方約100mほどの地に「吉志部瓦窯跡」の工房跡が検出されています。
複数の建物や瓦を生産するための施設があり、まさにこの地が瓦の大規模生産工場だったことを示すものとなっています。
案内板
大阪府指定史跡 吉志部瓦窯跡(工房跡)
当社周辺の様子
当社の南東に位置する旧・吉志部村の集落は現在も古い町並みがよく残っています。
中でも岸辺中4丁目に所在する「旧中西家住宅」は当地の大庄屋を務めた中西家の邸宅で、江戸時代後期の建物が当時のまま現在に残っています。
平成19年(2007年)に吹田市に家具や調度品と共に寄贈され、現在は「吹田吉志部文人墨客迎賓館」として予約制で公開されています。
案内板
旧中西家住宅 施設案内(吹田吉志部文人墨客迎賓館)
由緒
案内板
地図