社号 | 伊居太神社 |
読み | いけだ |
通称 | |
旧呼称 | 穴織宮、上の宮 等 |
鎮座地 | 大阪府池田市綾羽2丁目 |
旧国郡 | 摂津国豊島郡池田村 |
御祭神 | 穴織大明神、応神天皇、仁徳天皇 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月17日 |
式内社
伊居太神社の概要
大阪府池田市綾羽2丁目に鎮座する神社です。兵庫県尼崎市下坂部の「伊居太神社」と共に摂津国川辺郡の式内社「伊居太神社」の論社となっています。
当社の由緒に関連して、『日本書紀』応神天皇三十七年以降に次の記事があります。
『日本書紀』(大意)
三十七年二月一日。織女を求めて阿知使主(あちのおみ)と津加使主(つかのおみ)の親子を呉に遣わせた。彼らは高麗国へ渡ったものの呉へ行く道がわからなかったので高麗で道を尋ねると、高麗王が「久礼波(くれは)」と「久礼志(くれし)」の二人に案内させたので呉へ行くことができた。呉王は「兄媛(えひめ)」「弟媛(おとひめ)」「呉織(くれはとり)」「穴織(あやはとり)」の四人の織女を与えた。
四十一年二月。阿知使主が呉から筑紫に戻ったところ、胸形大神が織女を欲しいと乞われたので兄媛を奉った。残りの三人の織女を率いて摂津国の武庫へ戻ったが、応神天皇が崩御されたので仁徳天皇に奉った。今の呉衣縫と蚊屋衣縫は彼女らの子孫である。
呉から連れられた織女らは当地に居住し、織女のもたらした技術により織物や裁縫、養蚕などの産業が盛んになり、当地は「呉織の里」と呼ばれるようになったと言われています。
そして織女の一人、「穴織」を祀ったのが当社であると伝えられています。一方で「呉織」は近隣の「呉服神社」に祀られており、当社が「上の宮」と呼ばれたのに対し呉服神社が「下の宮」と呼ばれたなど、両社は非常に密接な関係にあります。
織女らが亡くなったとき、穴織は「梅室」に、呉織は「姫室」に葬られたと伝えられ、その墳墓はかつて阪急池田駅付近にあったと言われていますが、阪急電鉄(当時は箕面有馬電気軌道)の開通の際に取り壊されたようです。
一方で『延喜式』神名帳には「伊居太神社」は摂津国川辺郡に記載されているのに当地は旧・摂津国豊島郡です。猪名川の存在からしても当地が川辺郡だったことは考えにくいでしょう。
江戸時代中期の地誌『摂津志』によれば、当社はかつて川辺郡小坂田村(現在の兵庫県伊丹市小阪田/現在は大阪空港の敷地)に鎮座しており、中古現在地に遷座し、小坂田村に御旅所があったことが記されています。
旧地が完全に空港の敷地となっているので現在は探ることは不可能ですが、もしそれが真ならば、『延喜式』神名帳に川辺郡に記載されているのも納得です。
ただし、それならば上記の織女の伝説は果たして「伊居太神社」のものだったのかという疑問が湧きます。穴織や呉織が葬られたという墳墓は池田にありましたし、「呉織の里」と呼ばれたのも小坂田でなく池田でしょう。
事実、穴織を祀った池田の「穴織宮」と小坂田の「伊居太神社」は別の神社で、穴織宮に伊居太神社が合祀されたとする説もあります。その場合、本来の伊居太神社の御祭神は失われたか、もしくは境内社になっていることが考えられるかもしれません。
一方で伊居太をイケダと読ませているように、池田の由来をこれに求める説があるものの、それならば何故他所から移ったイケダの名が当地で残ったのかと疑問があります。(別の説として中世に池田氏が当地を支配したことに因むとするものもあり)
いずれにせよ一筋縄にいかず、式内社「伊居太神社」は当社と兵庫県尼崎市下坂部の伊居太神社のいずれかを決めることはできないのが現状です。
猪名津彦神社
伊居太神社の境内社で、「阿知使主」「津加使主」を祀っています。
上記の通り呉へ赴き織女らを連れて来た親子です。阿知使主らは渡来人で、後漢の霊帝の子孫と称し、倭漢直の祖となる人物です。
社伝によれば、阿知使主らは猪名川沿いの為那野と呼ばれた当地で織物の業を行なった功績により、反正天皇より爲那都比古大明神とされたと伝えられています。その後、江戸時代末の文化年間に阿知使主の墓と伝えられる墳墓で盗掘が行われた際、朱塗りの棺に人骨があったのでこれを納めて猪名津彦神社を再建したと言われています。
「明神」の号が用いられるようになったのは平安時代以降の頃とされるので、反正天皇から爲那都比古大明神の号が授けられたのはまず考えられませんが、猪名川周辺のヰナと呼ばれた地域を支配した首長として「ヰナツヒコ」と呼ばれた人物がいたことは考えられましょう。その人物が阿知使主だったのかもしれません。
摂津国豊島郡の式内社「爲那都比古神社」は当社であるとする説があります。ただし箕面市石丸に「為那都比古神社」が有力な論社として存在しているので、当社を直ちに式内社と認めるのは難しいようです。
境内の様子
境内入口。当社は五月山の南東麓に立地しており、山麓の住宅地の中に唐突に長い石段が現れます。
この石段を上っていくと鳥居が南向きに建っています。
鳥居をくぐると鬱蒼とした森の中を緩い石段の参道が真っすぐに続きます。
参道の正面に神門とも割拝殿とも言えそうな建物があります。公式ウェブサイトでは「大門」とあり、当サイトでもその表記に従います。
大門は瓦葺・平入の入母屋造に小柄な千鳥破風と軒唐破風が付いたもの。
大門の通路左右脇に出っ張った部屋が設けられてあり、それぞれ随身像が安置されています。このため、大門は形式としては随身門とも呼べるものとなっています。
大門をくぐると広い空間になっており、社殿や境内社など主要な建物の配置される神域となっています。
大門をくぐって右側(東側)に手水舎があります。
正面に社殿が南向きに並んでいます。これらの社殿は特に文化財指定されていないものの、慶長九年(1604年)に豊臣秀頼によって再建された古いものです。国重文でもおかしくない建築ですが、府指定はおろか市指定すらされておらず、もどかしく感じられます。
拝殿は瓦葺・妻入入母屋造の舞殿風拝殿。舞殿風拝殿は京都を中心に見られる形式で、大阪平野では少なくなりますがどういうわけか当地では飛び地的に見られます。近隣では吉田地区の細川神社もそうです。丹波方面から山を下りて伝わってきたのでしょうか。
拝殿前の狛犬。花崗岩製のやや新しいものです。
拝殿後方の基壇上に中門と透塀が建ち、その奥に本殿が建っています。
本殿は銅板葺で、五間社流造のように見えますが千鳥破風は三つ付いており、扉もそれぞれの千鳥破風に合わせて設置されています。これは三棟の千鳥破風付きの一間社流造が一つに繋げられたものと見るべきでしょう。やや珍しい建築です。
中門前の狛犬。こちらは砂岩製で古めかしさの感じられるものです。
境内社(神域内)
社殿の右側(東側)に境内社がまとまって鎮座しています。まず石段の上に二つの部屋に分けられた覆屋に三棟の境内社が西向きに配置されています。
この覆屋の左側の部屋に鎮座するのは「松尾大明神」。
右側の部屋には二棟の境内社が鎮座しています。左側は「国常立尊」。右側は「住吉大明神」。
松尾大明神などの左側(北側)に再び石段があり、その上にも境内社が南向きに鎮座しています。こちらは「豊受皇太神宮」と「天照皇太神宮」の相殿。両社を併せて「伊勢社」とも呼ばれているようです。
松尾大明神などの右側(南側)には神輿庫があり、中に神輿が納められています。
瓦葺入母屋造の大仰な建築で、もしかしたら元は仏堂か何かだったのかもしれません。なお、『摂津名称図会』は境内に観音堂があったことを記しています。
境内社(参道沿い)
道を戻り、大門前の左側(西側)に「猪名津彦神社」が東向き鎮座しています。御祭神は「阿知使主」「津加使主」。詳細は上記概要をご参照ください。
なお、当社には阿知使主の墓とされる墳墓から出土した骨が納められていると伝えられています。真偽は定かでありませんが、祠の前に大量の石が積まれており、いわくありげです。
案内板
爲那都比古大明神由来
さらに参道を戻ると、参道の右側(東側)に「厳島社」が西向きに鎮座しています。祠は涸れた池に囲まれて建っています。
厳島社の右隣(南側)には「稲荷大神」が西向きに鎮座。
御旅所(星の宮)
かつて伊居太神社は現在の兵庫県伊丹市小阪田が旧地でそこに御旅所があったと言われていますが、それとは別に当社から南東800mほどの地(建石町)に境外末社の「星の宮(明星太神宮)」が鎮座しており、伊居太神社の御旅所となっています。
社伝によれば、漢織(穴織)と呉織が夜遅くまで灯も付けずに夜遅くまで機を織っていた際、多くの星が天から降りてきて昼のように明るく照らしたので灯がなくても機織りができたと伝えられています。これに因み天から降りて来た星を祀っているのが当社だと言われています。
案内板
星の宮由来
境内周辺
当社の南方の西本町地区には大阪府下最古のうどん屋とも言われている「吾妻」さんがあります。元治元年(1864年)の創業。こちらは「ささめうどん」が名物で、細いうどんにとろみの付いた餡をかけたもの。上品な味わいでとても美味です。当社参拝と併せてどうぞ。


由緒
案内板
穴織宮伊居太神社の由来
『摂津名所図会』
地図
星の宮
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