社号 | 祝園神社 |
読み | ほうその |
通称 | |
旧呼称 | 春日社 等 |
鎮座地 | 京都府相楽郡精華町祝園柞ノ森 |
旧国郡 | 山城国相楽郡祝園村 |
御祭神 | 天児屋根命、建御雷命、経津主命 |
社格 | 式内社、旧郷社 |
例祭 | 10月10日 |
祝園神社の概要
京都府相楽郡精華町祝園柞ノ森に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳には大社とあり、古くは有力な神社だったようです。
『倭名類聚抄』にある山城国相楽郡の「祝園郷」は当地付近と考えられます。
当地「祝園(ホウソノ)」について、『古事記』の崇神天皇の段に次のような記事があります。
『古事記』(大意)
オホヒコノ命が越国へ下ったとき、ある少女が山城の幣羅坂で奇妙な歌を歌っていた。不思議に思って都へ戻り天皇に報告すると、「これはタケハニヤスノ王が反逆することを示したものだ。」として和珥氏の祖のヒコクニブクノ命を派遣した。
ワカラ河(現在の木津川)に至ったときタケハニヤスノ王が待機しており、川を挟んで対峙した。ヒコクニブクノ命が「そちらから開戦の矢を放て」と言うと、タケハニヤスノ王が矢を放ったが当たらなかった。今度はヒコクニブクノ命が矢を放つとタケハニヤスノ王に当たって死んだので、彼の軍勢は敗れて逃げ散った。
(略)
また逃げる兵士を斬り屠ったのでその地を「ハフリソノ」と呼ぶ。
『日本書紀』でもほぼ同じ内容が記されています。このように「タケハニヤスノ王(建波邇安王/武埴安彦命)」が崇神天皇に対して反乱を企て、木津川での合戦で敗れた様子が描かれています。
そしてこの合戦に置いて敗れた兵士を斬って屠った場所を「ハフリソノ」と呼び、それが現在の「祝園」であるとされています。動詞「ハフル」は「屠る」「放る」の意で敵を打ち負かし遺体を重ねることを指します。
また「葬る」とも同根で、遺体に対し祈りを捧げ供養するなど然るべき儀式を行うことも指します。ここから神事に従事する人である「祝(ほうり)」にも繋がるとも言われています(諸説あり)。
このように壮絶な戦が行なわれたことが伝えられているのがこの祝園です。
当社の由緒については、先のタケハニヤスノ王の反乱に関連し、死後彼の魂が柞(ハハソ)の森に留まって人々を悩ませ、神亀年間にこれを撲滅しようとするも為す術がなく、さらに後、称徳天皇の御代に直臣池田六良廣綱と宮城七良朝藤の二人が神官となって神護景雲四年(770年)に春日神を勧請して当社を創建したと伝えられています。
当社のすぐ南方にタケハニヤスノ王が斬られたと伝えられる地があり、当社が彼を鎮めるために創建されたとするのは自然な経緯であるように見えます。
ただ、タケハニヤスノ王の鎮魂のために春日神を勧請したとするのは唐突な印象です。奈良の春日大社の創建が神護景雲二年(768年)であり、その僅か二年後に当地で春日神が勧請されたとするのは聊か性急な感が否めません。
当地は中世以降春日大社の荘園となっており、恐らくはこれ以降に春日神が勧請されてタケハニヤスノ王の伝承に組み込まれたものと思われます。
本来は別の神が祀られていたと思われ、タケハニヤスノ王の霊を祀る廟だったか、或いはタケハニヤスノ王の伝承が記紀の付会で当地は文字通り「祝(ほうり)」の地、つまり祭祀の地だったか、さらには木津川の側に鎮座することから木津川の流水を守護する水神だったことなども考えられるかもしれません。
当社では正月甲申の日から三日間「いごもり祭」が行なわれます。これも先のタケハニヤスノ王の伝承に関連し、彼の怨霊が当地を荒らしたため人々が忌み籠って霊を鎮めたのが始まりだと伝えられています。
いごもり祭ではかつては決して音を立ててはいけないとされ「音無しの祭」とも言われていました。現在では音を立てない風習は廃れているようですが、現在でも厳粛に三日間に亘って「風呂井の儀」、「御田の儀」、「綱曳の儀」といった神事が執り行われます。
いごもり祭(居籠祭)と称する神事は木津川の対岸の「和伎坐天乃夫岐売神社」でも行われており、当社との間で深い関係があったことが窺われます。
いごもり祭は中世以来の農耕儀礼を今によく伝える貴重な神事として京都府指定無形民俗文化財となっています。
境内の様子
境内入口。境内南側の参道上に南向きの朱鳥居が建っています。
鳥居をくぐると正面に神門が建っています。神門は本瓦葺・平入切妻造の四脚門。
神門前の左側(西側)に手水舎があります。
神門をくぐるとすぐ正面に一本の灯籠、左右に一本ずつの木が配置され、その奥に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺・平入切妻造の割拝殿。狭い境内に対して桁行が長く大きな建築なので、境内の左右いっぱいを占めています。
拝殿前の灯籠には「春日社獻燈」と刻まれており、かつて春日社と呼ばれていた名残が見られます。
割拝殿内の通路の様子。鈴の緒が3セット設けられており、屋根上には多くの絵馬が掲げられています。
割拝殿の左右の部屋の様子。床は無く土間となっています。左側(西側)の部屋には炉(?)が設けられており、恐らくいごもり祭等の神事で用いられるものと思われます。
本殿は銅板葺の三間社流造で、こちらも大規模な建築。側面や背面は壁で囲われており覆屋のような格好になっています。
拝殿と本殿の間は屋根付きの通路となっています。
本殿前の狛犬。材質はよくわかりませんが砂岩の一種でしょうか。
本社本殿の周りには非常に多くの境内社が鎮座しています。いずれも朱に塗られた鮮やかな社殿となっています。
左側(西側)から時計回りに紹介していきます。西側には二社の境内社が東向きに鎮座。
本社本殿左側(西側)の手前側(南側)に「西宮神社」が鎮座。流見世棚造。
西宮神社の右側(北側)には「天満宮」が鎮座。春日見世棚造。
続いて本社本殿の後ろ側(北側)の境内社。こちらには五社が南向きに配置されています。
本社本殿後方(北側)の最も左側(西側)に「稲荷神社」が鎮座。春日見世棚造。
稲荷神社の右側(東側)に「出雲神社」が鎮座。春日見世棚造。
出雲神社の右側(東側)に「有功神社」が鎮座。二間社流見世棚造。
有功神社の右側(東側)に「祈雨神社」が鎮座。春日見世棚造。
祈雨神社の右側(東側)に「熱田神社」が鎮座。流見世棚造。
続いて本社本殿の右側(東側)の境内社。こちらには二社が西向きに配置されています。
本社本殿の右側(東側)の奥側(北側)に「熊野神社」が鎮座。春日見世棚造。
熊野神社の右側(南側)に「大神宮」が鎮座。流見世棚造。
参道を戻ります。神門手前の左側(東側)に竹藪の中に続く道があり、そこを進んでいくとこのような空間に出ます。
この道の最奥部には井戸があります。かなりの深さがあり、もし落ちたらかなり危険です。
井戸の傍らに小さな石祠が東向きに鎮座しています。社名・御祭神は不明。
当社の南方350mほどの地にこのような一画があります。「崇神帝十年役 武埴安彦破斬旧跡」と刻まれた石碑が建っており、崇神天皇に反乱を起こしたタケハニヤスヒコノ王が斬られたのがここだと伝えられています。
由緒
案内板
祝園神社
案内板
祝園の居籠祭
案内板
祝園神社
地図
関係する寺社等
和伎坐天乃夫岐売神社 (京都府木津川市山城町平尾里屋敷)
社号 和伎坐天乃夫岐売神社 読み わきにますあめのふきめ 通称 涌出宮(わきでのみや) 等 旧呼称 鎮座地 京都府木津川市山城町平尾里屋敷 旧国郡 山城国相楽郡平尾村 御祭神 天乃夫岐売命、田凝姫命、 ...
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