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棚倉孫神社 (京都府京田辺市田辺棚倉)

社号棚倉孫神社
読みたなくらひこ
通称
旧呼称天満宮 等
鎮座地京都府京田辺市田辺棚倉
旧国郡山城国綴喜郡田辺村
御祭神天香古山命
社格式内社、旧郷社
例祭10月15日

 

棚倉孫神社の概要

京都府京田辺市田辺棚倉に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳には大社に列せられており、古くは有力な神社だったようです。

社伝によれば、推古天皇三十一年(623年)に相楽郡棚倉から「高倉下命」を勧請したと伝えられています。

相楽郡棚倉とは現在の木津川市の平尾・綺田あたりであり、現在はJR奈良線の棚倉駅があります。平尾では式内社の「和伎坐天乃夫支売神社」、綺田では式内社の「綺原坐健伊那大比売神社」が鎮座していますが、現在はいずれも高倉下命とは関係無さそうです。

現在の御祭神は「天香古山命」。『先代旧事本紀』では天香古山命は饒速日尊の降臨に従った一柱で、別名を「手栗彦命」または「高倉下命」というとあり、記紀における高倉下命と同様の事蹟が描かれています。

当社の社名から推して本来の御祭神は「棚倉孫」だったと考えられますが、「棚倉孫(たなくらひこ)」は「高倉下(たかくらじ)」もしくは「手栗彦(たぐりひこ)」が転訛したものとも言われ、社伝はこれに倣ったものとなっています。

一方で「棚倉」とは穀物を収蔵する倉庫とする説、養蚕に用いた棚であるとする説、田のクラ(谷)が転訛したとする説などもあり、どのような神が祀られていたのかを明らかにするのは難しそうです。

また当社の社前を流れる川を「天津神川」と呼ぶため、天津神を祀る神社として式内社「天神社」を当社に比定する説もあります。

江戸時代には「天満宮」と呼ばれていたことからかつては「菅原道真公」を祀っていたことと思われます。当社では明治以降にズイキで飾った「瑞饋神輿」が製作、巡行されていますが、これは北野天満宮における瑞饋祭の影響が考えられ、比較的新しい風習とはいえここにかつての信仰の面影を見ることができそうです。

当社の鎮座する田辺地区は京田辺市の中心であり、京都、奈良、大阪のいずれへ出るにも便利な地です。この利便性のために当地は大いに発展し、当社もこの地の氏神として多くの人の崇敬を集める神社となっています。

 

境内の様子

境内入口。入口には「天津神川」が流れていますが、この川は天井川となっており周囲の土地よりも高いところを流れています。参道はこの天津神川を越えるため急斜面を上る形になっています。

 

天井川である天津神川を跨ぐと石段を下り元来の土地の高さへ戻ります。この天井川のため「下り宮」のような様相となっているのが大きな特徴です。

 

さらにまっすぐ進むと再び石段があり、その上に東向きの鳥居が建っています。この鳥居は元禄十五年(1702年)に淀藩主の石川憲之から奉納されたもの。

 

石段下の右側(北側)に手水舎があります。

 

棚倉孫神社

棚倉孫神社

鳥居をくぐると社殿が東向きに並んでいます。

拝殿は銅板葺・平入入母屋造に軒唐破風が付いたもの。正面三間、奥行二間で、舞殿風拝殿に似た壁の無い開放的な建築です。

拝殿前の左右に蝋燭型の石柱があるのが気になります。これは何なのでしょう。

 

拝殿前の狛犬。いずれも砂岩製ですが、右側の阿形は地衣類等の付いた年季の感じられるものである一方、左側の吽形はピカピカで見るからに新しいものです。両方取り換えるのならばまだしも、片方だけとなると、破損もしくは盗難があったのでしょうか。

 

拝殿後方の石垣の上に透塀・瑞垣に囲まれて檜皮葺の一間社流造の本殿が建っています。本殿の様子はあまりよく見えないものの、透塀・瑞垣と共に朱で塗られています。桃山時代の建立と考えられる貴重な建築で、京都府登録有形文化財です。

 

拝殿の右側(北側)には「五社殿」と呼ばれる五社の境内社が相殿になった建物があります。祀られている神社は左側から次の通り。

  • 寶蓮稲荷大明神
  • 老松殿」「紅梅殿」の相殿
  • 天照皇大神宮」「春日大明神」「八幡大菩薩」の相殿
  • 多賀神社
  • 稲荷神社

恐らく境内に鎮座していた境内社を一纏めにしたものと思われます。

 

拝殿の左側(南側)には絵馬殿が建っており、内部には「升と斗掻き棒」の絵馬が納められています。これは米寿(八十八歳)を記念して奉納されるもので、南山城の神社では手形絵馬と並んでよく見られるものです。

「升と斗掻き棒」の絵馬にも多少の地域差があり、当社では升に弦鉄(対角線状の部材)を設ける点、斗掻き棒を固定する部材が取り付けられている点が特徴です。

 

絵馬殿の左側(東側)には当社の10月15日の例祭で担がれる「瑞饋(ずいき)神輿」を安置する建物があります。

瓦葺の平入切妻造で割拝殿のような建物。

内部には大人用と子供用の大小二基の神輿があり、大人用は隔年で、子供用は2004年から毎年製作されています。

瑞饋神輿の細部の様子。屋根葺き材となっている瑞饋(サトイモの葉柄)をはじめ、白米や豆、唐辛子、金柑などさまざまな作物を用いて神輿を装飾しています。

当社での瑞饋神輿は明治以降に始められたようで、恐らく当社がかつて天満宮と呼ばれていたことから、北野天満宮の瑞饋祭の影響を受けたことが考えられます。

 

鳥居前の左側(南側)には「金毘羅社」が鎮座しています。

境内社の中でこの神社だけ独立して鎮座している格好です。

 

当社はかつて真言宗に属した「松寿院」という神宮寺がありました。神仏分離により廃寺となりましたが、その建物は田辺小学校の仮校舎として使用され、その後社務所として現在も使用されています。

この建物は天保十四年(1843年)に建て替えられたものです。

案内板

松寿院跡

 

当社境内は落葉樹が多く、秋にはカエデやイチョウなどが境内を鮮やかに彩ります。

 

当社社前の天津神川を少し遡った様子。

一説に川の名の「天津神」は当社のことを指すとも言われ、式内社「天神社」は当社であるとする説もありますが、詳細は不明です。少なくとも現在祀られている「天香古山命」が天津神と言えるかは微妙なところです。

それにしても、このような小川がこれほどまでに堆い天井川となっているとは驚きです。それほど土砂の堆積が膨大だったのでしょう。京田辺市は天津神川のように天井川となっている川が多く、治水に困難の伴う土地柄だったことが伺われます。

 

タマ姫
神社の名前からして「たなくらひこ」って神様が祀られてるのかなって思ったけど違うっぽい?
今の御祭神「天香古山命」は別名を「手栗彦(たぐりひこ)命」もしくは「高倉下(たかくらじ)命」とも言って、ここから「たなくらひこ」になったって説があるわね。でも実際のところはわからないわ。
トヨ姫

 

由緒

案内板

棚倉孫神社 旧社格郷社

案内板

棚倉孫神社と瑞饋神輿

 

地図

京都府京田辺市田辺棚倉

 

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