社号 | 楢神社 |
読み | なら |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 奈良県天理市楢町 |
旧国郡 | 大和国添上郡楢村 |
御祭神 | 五十狹芹彦命、鬼子母神 |
社格 | 式内論社、旧村社 |
例祭 | 10月10日 |
楢神社の概要
奈良県天理市楢町に鎮座する神社です。式内社「奈良豆比古神社」を当社に比定する説があります。
社伝によれば神護景雲元年(767年)に神託により創建されたと伝えられ、また当社の神は古く加賀国(石川県)の白山の峰に顕れて「石川比咩命」と名乗り榊に乗って当地に鎮座したとも伝えられています。
石川比咩命とは記紀に見えず詳細不明ですが、加賀国の白山に顕れたことから加賀国石川郡の土地神の意であることが考えられます。当地と加賀との間に何らかの関係があったのかもしれません。
ただ一般に白山の神とされる白山比咩神社(白山権現)とは別の神だったようで、白山権現は本地仏を十一面観音菩薩とするのに対し、当社では本地仏を訶梨帝母(鬼子母神)として古くから信仰していました。
鬼子母神は500人もの子を持ち、彼らを養うために人間の子を食らっていたものの、釈迦に如何なる者も子を失うことは苦しいものであると諭されて人の子を食うことをやめ、仏教を守護する神となった夜叉(鬼神)です。
この説話により鬼子母神は多産・子宝の神として信仰され、当社も多産・子宝の神として名高く知れ渡っていたようです。
鬼子母神はザクロの実を持物としており(ザクロは種の多さから多産の象徴であるとも、人肉の味に近いからとも言われている)、現在行われているかは未確認ながら当社でも10月10日の例祭にはザクロの実が奉納されると記録されています。
当社は元々は東方1kmほどの東大寺山に鎮座し、氏子地域から離れていて不便だったので江戸時代に現在地に遷したと伝えられています。
現在は御祭神として「鬼子母神」に加えて「五十狹芹彦命」を主祭神として祀っており、明治以降の一時期は「五十狭芹彦命神社」とも名乗っていました。
鬼子母神として信仰された当社に五十狭芹彦命が祀られた理由は全く不明で、一説に五十狭芹彦命が武埴安彦命の反乱に際してその妻である吾田媛を撃ち軍を那羅山に進めたため、那羅山と楢をかけたものとも言われていますが、那羅山とは奈良北方の平城山のことであり全くの付会と言わざるを得ません。
上述のように当社が式内社「奈良豆比古神社」であれば本来の神は奈良豆比古であり、「楢(なら)」と呼ばれるこの地の土地神、或いは開拓神が祀られたものと想定できましょう。
しかしやはり添上郡内で古くからナラといえば平城京のあった奈良を指すのが自然で、一般的にも奈良市奈良阪町に鎮座する「奈良豆比古神社」が式内社であると見做されており、当社が式内社である説は有力でありません。
添上郡内に同じ「ナラ」の地名があり、しかももう片方が圧倒的に知名度も歴史もあるために当地はやや不遇な扱いといった印象です。しかし当地もまた当地なりの歴史があったことは忘れるべきではないでしょう。
境内の様子
境内入口。当社は楢町の集落の南端に位置しており、入口は道に面して西向きの鳥居が建っています。
鳥居は銅製の神明鳥居。
鳥居をくぐって左側(北側)に手水鉢が配置されています。
鳥居をくぐって左(北側)へ曲がると正面に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は銅板葺・妻入切妻造。左右に授与所のような建物が建っています。
拝殿前に配置されている狛犬。砂岩製で端正な顔立ち。
金網で囲われて閉じ込められています。貴重なものなのでしょう。
本殿は銅板葺の一間社春日造で朱が施されています。
伝承では文久二年(1862年)に春日大社の式年造替で払い下げられたもので、氏子が春日大社から当社まで担いで運んだと伝えられています。
鳥居からまっすぐ正面に進んだところにこのような井戸が設置されています。
この井戸は「実増井(みますい)」と呼ばれ、この井戸水は子供を授かる霊水だとして信仰されています。
井筒は弘化五年(1848年)に八代目市川團十郎が奉納したもの。
実増井と社殿の間の空間に境内社が鎮座しています。
右側(南側)に「八幡神社」が西向きに鎮座。
社殿は銅板葺の春日見世棚造。
八幡神社の右脇(南側)の木の根元に小さな石祠が西向きに鎮座しています。社名・祭神は不明。
八幡神社の左側(北側)に「恵比須神社」が西向きに鎮座。
社殿は銅板葺の春日見世棚造。社殿前にエビス像が置かれています。
当社境内の様子。
それほど大きな神社ではないものの社殿前の敷地が広くとられており、実に広々とした印象を受けます。
地図