社号 | 天太玉命神社 |
読み | あめのふとたまのみこと |
通称 | |
旧呼称 | 春日社 等 |
鎮座地 | 奈良県橿原市忌部町 |
旧国郡 | 大和国高市郡忌部村 |
御祭神 | 天太玉命、大宮売命、豊石窓命、櫛石窓命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月9日 |
天太玉命神社の概要
奈良県橿原市忌部町に鎮座する神社で、式内社「太玉命神社」は当社に比定されています。
『延喜式』神名帳には名神大社に列せられ、古くは非常に有力な神社だったようです。
当地を本貫とした「忌部氏」が祖神を祀ったのが当社と考えられています。
忌部氏は太玉命を祖とする氏族で、中臣氏と並ぶ古代における有力な祭祀氏族でした。
記紀における天岩戸の段では、忌部氏の祖であるフトダマは中臣氏の祖であるアメノコヤネと共に重要な役割を果たしており、忌部氏と中臣氏が共に宮中における祭祀を担った極めて重要な氏族であったことが反映されています。
しかし大化の改新後に中臣氏およびそこから輩出した藤原氏が勢力を強めるに伴い、忌部氏はその地位を奪われ衰微していくことになります。
忌部氏は平安時代前期に「斎部」と氏を改め、大同二年(807年)に斎部広成が『古語拾遺』を著した(斎部氏の衰退を憂えた広成がその正統性を主張するものであるとする説もあるが、現在は報告書に過ぎないとする説が有力)ものの、他に目立った活躍はなく結局は中臣・藤原系の一族に祭祀の職掌を占有されることとなります。
弘仁六年(815年)に編纂された『新撰姓氏録』には中臣系氏族が非常に多く登載されているのに対して、忌部系氏族は右京神別に高皇産霊尊の子、天太玉命の後である「斎部宿祢」が登載されている程度で、登載漏れがあるにしても隆盛を極めつつある中臣系に比べて忌部系の衰退ぶりが明白となっています。
さて当社について、忌(斎)部氏の衰退と共に当社も大きく衰退したようで、江戸時代前期には「忌部」の地名こそ残っていたものの、神社は皮肉にも忌部氏のライバルである中臣氏の祖神を祀る春日社となっていました。
元禄年間に国学者・儒学者の松下見林により式内社「太玉命神社」は当社に比定され、御祭神も現在と同じ「天太玉命」「大宮売命」「豊石窓命」「櫛石窓命」とされました。
『古語拾遺』によれば大宮売命、豊石窓命、櫛石窓命は太玉命の子であると記しており、『延喜式』神名帳に当社は四座とあるため太玉命を除く三座をこれらの神に充てたものと思われます。
式内社「太玉命神社」の存在は長らく忘れられていたものと思われますが、松下見林による比定以降は当社が式内社として再認識されたようで、現在も灯籠に「太玉社」と記したものが見られます。
一方、遡って室町時代の文書『和州五郡神社神名帳大略注解』(通称『五郡神社記』)によれば式内社「太玉命神社」について次のことが記されています。
- 御祭神は第一に「天太玉命」、第二に「大宮乃売命」、第三に「忌部祖太玉命」、第四に「天比乃理咩命」である。
- 著者が参拝したところ、第一と第二は合取で横搏風(よこはふ)造の両扉となっており、第三と第四も同様であった。
- また東方に西向きで一座があり、式内社「天津石門別神社」はこれである。
この頃の御祭神は、「天太玉命」「大宮乃売命」は現在と共通しているものの、残りは「豊石窓命」「櫛石窓命」でなく「忌部祖太玉命」「天比乃理咩命」なる神を祀っていたようです。
「天太玉命」と「忌部祖太玉命」は同じ神であるように思えるため不審ですが、『式内社調査報告』はこの点について、忌部氏の後裔はみなフトダマの尊称を得たのであろうとして、「忌部祖太玉命」はフトダマの孫であるアメノトミ(天富)を指すのではないかと推測しています。
「天比乃理咩命」は「天比理乃咩命」の誤記と思われ、この神はフトダマの后であるとされています。式内社では安房国安房郡の「后神天比理乃咩命神社」(千葉県館山市洲崎の「洲崎神社」もしくは千葉県館山市洲宮の「洲宮神社」に比定)に祀られる神ですが、『延喜式』より古い史料では「天比理“刀”咩命」とあるため、本来はそちらが正しいと思われます。
また当時は天太玉命と大宮乃売命、忌部祖太玉命と天比乃理咩命はそれぞれ相殿として祀られ、二宇の本殿で構成されていたようです。
さらに境内社として式内社「天津石門別神社」があったとも記しています。
『古事記』によれば天孫降臨の段において天石戸別神はまたの名を櫛石窓神といい、またの名を豊石窓神というとあります。さらに上述のように『古語拾遺』によれば豊石窓命、櫛石窓命は太玉命の子であるとも記しています。
このことから、天石戸別神、豊石窓命、櫛石窓命は同じ神で、フトダマの子であり、いずれも忌部氏の神であるとも言え、式内社「太玉命神社」の境内社として式内社「天津石門別神社」が鎮座していたとするのも全く不思議な事ではありません。
ただ『延喜式』の時代にもこの形態だったかは不明で、当時は別々の神社だったのがいつの頃か天津石門別神社が太玉命神社の境内に遷座したのかもしれません。
一方、式内社「天津石門別神社」は江戸時代には所在不明となっており、明治八年(1875年)にどういうわけか高取町越智に鎮座する九頭明神と呼ばれていた神社に比定され現在に至っています。
この比定には全く根拠が無いと言わざるを得ず、『和州五郡神社大略注解』の記述の通り式内社「天津石門別神社」は当社境内にあったものの、当社がいつしか春日社となり、それに伴い天津石門別神社も忘れ去られてしまったとするのが妥当でしょう。
このように忌部氏の衰退に伴い忌部氏の氏神たる当社もまた衰退の憂き目に遭ったことが考えられます。
しかし江戸時代以降は復興を遂げ、小さな神社ながらも忌部氏ゆかりの神社として信仰されています。
境内の様子
当社は忌部町の集落から国道166号を渡って北側に立地しています。
国道からこんもりとした森が見え、これが当社境内となります。
境内の南側に入口があり、舗装された参道が北へまっすぐ伸びています。
入口に立つ灯籠には「太玉社」と刻まれています。いつの奉納かは不明ですが恐らく江戸時代後期頃のものでしょう。
参道を進むと一の鳥居が南向きに建っています。
鳥居の手前右側(東側)に手水舎が建っています。手水鉢は船形に穿たれており盃状穴も目立ちます。
一の鳥居をくぐった様子。
さらに進むとやや土地が高くなっており、四段ほどの石段が設けられています。
この石段の上に二の鳥居が南向きに建っています。
二の鳥居の両脇に建つ灯籠も「太玉社」と刻まれており、これは大坂の人により奉納されたようです。
二の鳥居をくぐると社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺・平入切妻造。
拝殿前に配置されている狛犬。花崗岩製です。
拝殿後方に建つ本殿は塀で囲われており、外からは全く見えず拝所から辛うじて窺うことができるのみとなっています。
基壇上、玉垣後方の中央に銅板葺の軒方向に長い一間社流造が、その左右に銅板葺の一間社春日造がそれぞれ建っています。
中央の社殿が本社本殿で、左側(西側)の社殿は「春日神社」(御祭神「天児屋根命」)、右側(東側)の社殿は「玉依姫命神社」(御祭神「玉依姫命」)です。
当社は元禄年間に松下見林により式内社「太玉命神社」に比定されるまでは「春日社」と称していたため、その春日神が今は境内社として祀られているのかもしれません。
本社拝殿前の左側(西側)に玉垣に囲まれて境内社が東向きに建っています。社名のわかるものはありませんが、手持ちの資料から「岡本天王社」であると思われます。
なお室町時代の文書『和州五郡神社大略注解』には当社境内に式内社「天津石門別神社」があったと記していますが、残念ながら現在はなくなってしまっているようです。
地図
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