社号 | 等彌神社 |
読み | とみ |
通称 | |
旧呼称 | 能登宮 等 |
鎮座地 | 奈良県桜井市桜井 |
旧国郡 | 大和国十市郡桜井村 |
御祭神 | 上津尾社:大日霊貴命 / 下津尾社:磐余明神、品陀和気命、高皇産霊神、天児屋根命 |
社格 | 式内社、旧県社 |
例祭 | 5月5日 |
式内社
等彌神社の概要
奈良県桜井市桜井に鎮座する式内社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、社伝によれば元々は鳥見山の山中(斎場山)に鎮座していたところ、天永三年(1112年)五月に豪雨のために山崩れが発生し社殿も埋まったため、同年九月五日に現在地に遷座したと伝えられています。
当社は境内下方に鎮座する「下津尾社」と境内上方の山腹に鎮座する「上津尾社」の二つの主要な神社で構成されており、さながら里宮・奥宮といった関係性のようになっています。
下津尾社は右殿と左殿に分かれており、右殿は「八幡社」として「磐余明神」「品陀和気命」を、左殿は「春日社」として「高皇産霊神」「天児屋根命」を祀っています。
これに対して上津尾社では「大日霊貴命」を祀っています。
現在は上津尾社を本社とする一方で、古くは下津尾社の方が信仰の中心だったようで、かつては下津尾社の側に「能登寺」と呼ばれる神宮寺があったと言われています。
能登寺は早くから廃れたようですが、当社も江戸時代以前は「能登宮」と呼ばれており、何に因むかは不明ながら当寺社は古くから「能登」を称していたようです。
なお、『延喜式』神名帳には等彌神社は式上郡に記載されていますが、当地は明治以前は十市郡に属していました。いつの頃か郡域の変更があったのかもしれません。
上述のように当社はかつて鳥見山の山中に鎮座していたとされ、当社が山岳信仰の神社であったことを示唆しています。「斎場山」と呼ばれていたことから、神体山というよりは山中に神籬などの祭祀場を設けて祀ったのが原初の姿だったのかもしれません。
上津尾社の御祭神が「大日霊貴命」であり、この神は天照大神と同一であると一般に解されていますが、本来は日の神を祀った巫女を神格化したものと考えられ、当社においても山中の祭祀場で太陽の神を祀ったことが考えられるかもしれません。
一方、『新撰姓氏録』によれば左京神別に速日命の六世孫、伊香我色乎命の後裔であるという「登美連」が、また河内国神別に饒速日命の十二世孫、小前宿祢の後裔であるという「鳥見連」が登載されており、この物部系氏族の「トミ」と名乗る氏族が当地にも居住し祖神を祀ったとする説もあります。
この「トミ(鳥見/登美)」は地名として、『日本書紀』の神武東征や、物部系の史料である『先代旧事本紀』のニギハヤヒの降臨や葬儀において頻繁に登場し(詳しくは「登弥神社」の記事を参照)、物部系氏族のトミ氏もこれに因むものと考えられます。
これら「トミ(鳥見/登美)」がどこであるかは諸説あり、大和国添下郡(おおむね奈良市西部)の富雄川流域とする説(奈良市石木町に「登弥神社」が鎮座)と、鳥見山を背後とする当地一帯であるとする説があります。
『先代旧事本紀』の記述を重視すれば富雄川流域とする説に説得力がある一方、『日本書紀』を見れば「菟田川」「墨坂」など宇陀付近の地名の登場する局面の次に「鳥見」の地名が登場し、当地一帯とする説に説得力が感じられます。
さらに神武天皇即位後の『日本書紀』神武天皇四年四月二十三日の条では「鳥見山」の中に「霊畤(れいじ)」を立てて神々を祀り、その地を「上小野榛原」「下小野榛原」と名付けたことが記されています。霊畤とは祭祀の場といった意味です。
この「鳥見山」の場所も諸説あり、「上小野榛原」「下小野榛原」がかつて萩原と呼ばれていた現在の宇陀市榛原に比定されており、これに関連して「鳥見山」も宇陀市と桜井市の境界上、榛原のすぐ北方にある「鳥見山」とする説があります。
これに対して当社の鎮座する「鳥見山」こそがそうであるとする説も根強く、昭和十五年(1940年)の紀元2600年祭の一環で当地の鳥見山が神武天皇聖蹟として顕彰され、鳥見山の山中には「霊畤」と刻まれた石碑が建っています。
しかしながら、神話色の強い時代の話なので実際の地名と照合して事跡を再構築するのは無理があることでしょう。
ただ当地の鳥見山は古くからの神山である三輪山と大和川を挟んだ向かいに位置しており、狭い谷間を流れて来た大和川が一気に開けた奈良盆地へと流れ出る場所であり、この要所にある鳥見山もまた古くから神を祀ってきたことは不思議ではないでしょう。
鳥見山周辺は「桜井茶臼山古墳」や「メスリ山古墳」といった古墳時代初期の極めて大規模な古墳が築造されており、この辺りに絶大な勢力を誇った首長がいたことが考えられます。
これらが当社の信仰と直ちに繋がるとは考えにくいものの、その源流となる信仰は既にこの頃にあったのかもしれません。
境内の様子
当社の境内は広大なので複数の区画に分けて紹介します。
境内社についても当社は参道沿いに鎮座しているものが多いため、当記事では目についた順に紹介していきます。
境内入口~下津尾社
当社境内は桜井地区の南東部、鳥見山の西側の麓~中腹にあります。
境内入口は道路に面しており東方へと参道が伸びています。
入口を進むと右側(南側)に手水舎が建っています。
当社境内は山の斜面にあり石段も多いため手水舎の傍らに杖が用意されています。
手水舎の向かい側、参道の左側(北側)に「桃神池」と呼ばれる池があり、そこに浮かぶ島に祠が西向きに建っています。
看板には「意富加牟豆美命」を祭神とする旨が記されていますが、案内図には「市杵嶋神社」とあります。
社殿は銅板葺の春日見世棚造。
手水舎の先には石段があり、その下の左右に狛犬が配置されています。砂岩製で赤い涎掛けが特徴的。
当社には境内社などを含め他にもいくつか狛犬があり、殆どに赤い涎掛けが付けられています。
石段上には一の鳥居が西向きに建っています。
一の鳥居をくぐった様子。参道は深い森に包まれ、日の長い5月の昼間でも薄暗い境内となっています。
一の鳥居から石段を上った先の左側(北側)に「御祓殿石」と刻まれた石碑と灯籠が建ち、注連縄で囲まれています。案内図には「お祓所」とあります。
奈良県内の大規模な神社では参道入口などに「祓戸神社」が鎮座し、本社参拝前に参拝することで穢れを祓い身を清める風習が見られますが、これも同様のものかもしれません。
さらに参道を進みます。参道には非常に多くの石灯籠が並んでいます。
途中、「夫婦杉」と呼ばれる根元の繋がった二本の杉があり、大きなものではありませんが夫婦円満に験があるとして信仰されているようです。
夫婦杉の右側(東側)に玉垣で囲われた空間があり、朱の神明鳥居が南向きに建っています。
鳥居をくぐると正面には「猿田彦大神(?)」と刻まれた石碑が建ち、注連縄が掛けられています。案内図では「猿田彦大神社」とあります。
猿田彦大神社の向かい側、参道の右側(南側)の石垣上に玉垣で囲われた広い空間があり、ここが「下津尾社」になります。
石垣上へ至る石段の上には鳥居が北向きに建っています。
鳥居をくぐると下津尾社の社殿が北西向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺の平入切妻造で、壁と床の無い開放的な構造。かつては当社の信仰の中心だったと言われているものの、現在はかなり簡素な建築です。
拝殿後方、石垣の上に中門および塀に囲われて本殿が建っています。
本殿は見えにくいですが、銅板葺の一間社春日造で二棟が左右に並んでいます。
右殿は「八幡社」として「磐余明神」「品陀和気命」を、左殿は「春日社」として「高皇産霊神」「天児屋根命」を祀っています。
下津尾社の本殿左側(東側)に「恵比須社」が北西向きに鎮座。
社殿は檜皮葺の一間社流造で、覆屋に納められています。
下津尾社~上津尾社
下津尾社から先の参道は二手に分かれており、ここに百度石が設けられています。
上津尾社へはどちらからでも行けますが、当記事では入口からまっすぐ進んだ先となる右側の参道を進んでいきます。
- 参道を進むと左側(北側)の玉垣に囲まれた空間に銅板葺・平入切妻造の覆屋が建っており、その中に二つの石碑が安置されています。石碑はいずれも「金比羅大権現」と刻まれています。
案内図には「金比羅社」と記載されていますが、これら二つの石碑は石材や刻み方などが全く異なっていることから、元々は別の場所にあった金比羅大権現を祀る二つの石碑を一纏めにして祀っているのかもしれません。
金比羅社の右側(東側)には「愛宕社」が南向きに鎮座。こちらは社殿が建っており、銅板葺の流見世棚造となっています。
社殿の傍らには「愛宕山大権現」と刻まれた愛宕灯籠も建っています。
参道をさらに進みます。参道はこの先で突き当りとなっており、左側(北側)へと折れ曲がります。
参道を曲がると石段の上に鳥居が建っており、その奥の空間が「上津尾社」となります。
石段上に建つ鳥居。東向きに建っており、当社の二の鳥居にあたります。
二の鳥居をくぐるとかなり広い空間となっており、右側(東側)に上津尾社の社殿が西向きに並んでいます。
拝殿は銅板葺の平入入母屋造で、正面に妻入入母屋造の破風が段違いで設けられています。
現在は上津尾社が本社となっており、「大日霊貴命」を祀っています。
拝殿前に配置されている狛犬。砂岩製で、やはり赤い涎掛けが付けられています。
拝殿後方の石段上に透塀に囲まれて本殿が建っているものの、殆ど見ることはできません。
資料によれば銅板葺の一間社流造のようです。
本社拝殿の右側(南側)には参集所や神饌所など神事の際に用いられると思われる施設が並んでいます。
拝殿前の左側(北側)には玉垣に囲まれて「弓張社」が鎮座。社殿は銅板葺の小規模な一間社春日造。
鳥見山
上津尾社から西側の石段を下りたところに広場があり、ここから上述の参道の分岐点に合流します。
この空間の北側に、当社背後の山であり神武天皇聖蹟の「霊畤」ともされる「鳥見山」への登山道の入口があります。
この登山道は境内社「鳥見稲荷神社」の入口ともなっており、朱鳥居が南向きに建っています。
案内板
鳥見山観光散策路(往復 約2km)
鳥見山入口の鳥居の傍らには岩石があり、注連縄で囲まれていました。案内図には「お祓所」とあり、詳細不明ですが境内入口の「お祓所」と同じようなものでしょうか。
鳥居をくぐって鳥見山の山頂を目指します。
最初はこのように朱鳥居が並んでいます。
鳥見山への登山道は途中で右へ曲がりますが、これを無視してまっすぐ進むと「鳥見稲荷神社(稲荷社)」が鎮座しています。
朱の神明鳥居が建ち、玉垣に囲まれており、覆屋の中の基壇上にも鳥居と瑞垣が設けられ、その中に銅板葺・流見世棚造の社殿が建っています。
道を少し戻ります。
鳥見山の山頂へはこの山上へ伸びる分岐した道を登っていきます。
- 道の途中、「黒龍社」が鎮座しています。覆屋の中に鎮座しており、社殿は檜皮葺の小規模な一間社流造です。
登山道を進んで行くと石段の上に注連縄が掛かっているのが見えます。
石段を上り注連縄をくぐるとちょっとした平らな空間があり、二つの石碑が並んでいます。
この地を「斎場山」と呼ぶようで、天永三年(1112年)に山崩れが発生するまではこの地に当社が鎮座していたようです。
ここに建つ二つの石碑の内、左側の石碑は万葉歌碑で、『万葉集』巻10-2346の「うかねらふ 跡見山雪の いちしろく 恋ひば妹が名 人知らむかも」の歌が刻まれています。
右側の石碑は「霊畤拝所」と刻まれています。この石碑の建立意図は不明ですが、当地が旧社地であり鳥見山の山頂を遥拝する地であると共に、神武天皇聖蹟「霊畤」とされる鳥見山の山頂はまだまだ先なので、足腰の弱い人向けにここで遥拝して済ますためのものかもしれません。
案内板
引き続き山頂へ向けて道を登っていきます。鬱蒼とした森の中の山道を進んでいきます。
しばらく進むと再び平らな空間となります。ここは「庭殿」と称し、祭りの饗宴に供された場所と伝えられているようです。
ここに建つ石碑は桜井町の歌人が詠んだ「見わたせば 大和國原ひとめにて 鳥見のゆ庭の跡ぞしるけき」という歌が刻まれています。
案内板
- 山頂への道はさらに東へと続いています。
この道の途中に三カ所目の平らな空間があります。ここは他と比べればやや狭く、山道の途中のちょっとした休憩スポットといった印象。
ここには「白庭」と刻まれた石碑が建っています。この地をそう呼ぶのでしょうか。少なくとも古くからの地名とは考えられず、『先代旧事本紀』に記載されているニギハヤヒの降臨した地「鳥見の白庭山」から採ったものでしょう。
道はまだまだ続いており、引き続き進んでいきます。
黙々と進んでいくと奥に土盛りのようにやや高まったところがあり、丸太階段が設けられています。この上がいよいよ鳥見山の山頂です。
鳥見山山頂もまた平らな空間となっており、ベンチが設けられ憩いの場となっています。ただし木々に遮られているため全く展望は利きません。
ここには「霊畤」と刻まれた石碑が建っています。昭和十五年(1940年)の紀元2600年祭の一環で、当地・鳥見山が神武天皇が神を祀ったという「霊畤(れいじ)」に認定され、顕彰されたものです。
ただ「霊畤」の候補地は他にもあり、神話色の強い時代の話であることを念頭に置かねばなりません。
案内板
鳥見山山中霊畤について
八咫烏像
当社社務所の受付には不思議な形の像が置かれています。元文元年(1736年)に下津尾社の境内から神像が出土したといい、社務所の像はそのレプリカです。
神像は八咫烏とされており、実物は公開されておらず本殿に祀られているようです。調査がなされていないため、これがいつ頃何のために作られたのかははっきりしません。もちろん、八咫烏として作られたのかどうかも不明です。
現在この像は当社のマスコット的な存在として親しまれており、手水舎に掛けられている手ぬぐいにもこの像がデザインされている他、この像を模した土鈴も授与されているようです。
御朱印
地図
関係する寺社等
登弥神社 (奈良県奈良市石木町)
社号 登彌神社 読み とみ 通称 旧呼称 木島大明神、鳥見明神 等 鎮座地 奈良県奈良市石木町 旧国郡 大和国添下郡木島村 御祭神 高皇産霊神、誉田別命、神皇産霊神、饒速日命、天児屋根命 社格 式内社 ...
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