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登弥神社 (奈良県奈良市石木町)

社号 登彌神社
読み とみ
通称
旧呼称 木島大明神、鳥見明神 等
鎮座地 奈良県奈良市石木町
旧国郡 大和国添下郡木島村
御祭神 高皇産霊神、誉田別命、神皇産霊神、饒速日命、天児屋根命
社格 式内社、旧県社
例祭 10月8日

登彌神社の概要

奈良県奈良市石木町に鎮座する式内社です。

当社の創建・由緒は不明です。一説に物部氏の一族である「登美(鳥見)氏」が当地に居住し祖神を祀ったのが当社であるとも考えられています。

『新撰姓氏録』左京神別に速日命の六世孫、伊香我色乎命の後裔であるという「登美連」が、河内国神別に饒速日命の十二世孫、小前宿祢の後裔であるという「鳥見連」が登載されています。ただし大和国にはトミを名乗る氏族は登載されておらず、漏れているのかもしれません。

 

「トミ」の地名については『日本書紀』神武天皇即位前紀、イワレヒコ(後の神武天皇)が熊野から大和に入り長髄彦と再び戦った際に次のように記されています。

『日本書紀』(大意)

皇軍が長髄彦を撃つ際、なかなか勝ち取ることができなかった。その時たちまち天が曇って雨氷が降り、金色の鵄(トビ)が飛んできて弓の筈に留まった。その鵄は稲光のように光り輝き、長髄彦の軍はみな眩み、戦う力をなくしてしまった。長髄は邑の元々の名前で、それによって人の名としている。皇軍が鵄の瑞祥を得たことによって時の人は鵄(トビ)邑と名付けた。今鳥見(トミ)というのはこれが訛ったものである。

このようにイワレヒコ(神武天皇)が長髄彦に勝利するきっかけをもたらし即位と建国を導いた「金鵄」がトミの由来であるとしています。ただし『古事記』にこの逸話は無く、イワレヒコに熊野を案内した八咫烏が金鵄に対応しているとする説があります。

また『日本書紀』には神武天皇の即位後、鳥見山の中に「霊畤(れいじ)」を立てて神々を祀ったことが記されています。霊畤とは祭祀の場といった意味です。

一方、物部系の史書である『先代旧事本紀』では「トミ」は物部氏の祖のニギハヤヒに深く関連する地名として登場します。

『先代旧事本紀』(大意)

ニギハヤヒは天神の御祖の詔を受けて天の磐船に乗り、河内国の「河上の哮峯(タケルガミネ)」に降臨した。そして大和国の「鳥見の白庭山」に遷った。

このようにニギハヤヒが降臨した後に定住した場所が「鳥見の白庭山」であったとしています。

さらにその後、ニギハヤヒの亡くなった際にもこの地名が出てきます。

『先代旧事本紀』(大意)

(天においてニギハヤヒの葬儀を終えた後)ニギハヤヒは夢で妻の御炊屋姫に「お前の子を私のように形見のものとせよ」と教え、天璽瑞宝を授けた。また、天の羽弓矢、羽々矢複、神衣帯手貫の三つの物を登美の白庭邑に埋葬してこれを墓とした。

ニギハヤヒの遺体は天で葬ったためか、下界ではニギハヤヒゆかりの「三つの物」を遺品として埋葬することでニギハヤヒの墓としたことが記されており、その地が「登美の白庭邑」であるとしています。

これら『日本書紀』や『先代旧事本紀』に登場する「トミ」がどこであるかは諸説あり、当地を含む富雄川流域の一帯であるとする説、桜井市の鳥見山付近(麓には式内社の「等彌神社」が鎮座)とする説の二つに大きく分かれています。

『先代旧事本紀』を見れば河内からすぐに移動した点で富雄川流域とする説に説得力がある一方、『日本書紀』を見れば「菟田川」「墨坂」など宇陀付近の地名の登場する局面の次に出てくる話であり、トミを桜井市とする説に説得力が感じられます。

両者は大きく離れた地ですがどちらとも取れるため比定が非常に難しいものとなっています。

なお、『倭名類聚抄』大和国添下郡に見える「鳥貝郷」について『角川地名大辞典』は鳥見は鳥貝を誤記したものと記しており、もしそうであるならば富雄川流域のトミは後世の付会であることになります。

しかし「トミ」と名乗る当社の存在もありこの地が「トミ」と呼ばれた歴史はそれなりに古かったはずです。

当地付近が長髄彦やニギハヤヒにゆかりの「トミ」であった伝承も各地に残っており、三碓の「添御縣坐神社」では長髄彦を武乳速之命と名を変えて祀っていると伝えられている他、富雄川の上流には饒速日命墳墓とされる塚や同じくニギハヤヒの墓とも言われる真弓塚などがあります。

このように当地付近こそが「トミ」であるとする伝承は根強く、当社の神域が「登美の白庭邑」にあったニギハヤヒの墓所とする説もあるようです。

いずれにせよニギハヤヒやイワレヒコ(神武天皇)、長髄彦の活躍した舞台であるとする漠然とした認識が当地一帯にあり、それを構成する要素の一つとして当社の存在があるというのが実際のところでしょう。

 

なお、当社では毎年2月1日に「粥占い」が行われます。これは湯釜に竹筒を入れて粥を焚き、引き揚げた竹筒に入った粥の残り具合で作物の実り具合を占うものです。

全国各地で行われており、近隣では大和郡山市矢田町の「矢田坐久志玉比古神社」、大阪府東大阪市出雲井の「枚岡神社」でも行われています。

 

境内の様子

登弥神社

登弥神社

富雄川沿いにある丘の中腹に当社は鎮座しています。当社の入口は丘の南麓にあり、一の鳥居が南向きに建っています。

 

一の鳥居をくぐった様子。境内は鬱蒼とした社叢となっており、丘の中腹へと緩やかな石段が続いています。

灯籠にはかつての呼称である「木嶋大明神」と刻まれています。写真左側の灯籠の竿は新しいものとなっていますが、恐らく元々の竿をそのまま復元したものでしょう。

 

石段の途中に二の鳥居が建っており、石段の上に社殿が見えてきます。

 

石段を上って左側(西側)に手水舎があります。

 

登弥神社

登弥神社

石段の上の広い空間に社殿が南向きに並んでいます。参道はやや東寄りなのに対し社殿はやや西寄りに建っているので方向にズレが生じています。

拝殿は桟瓦葺の平入入母屋造で壁の無い開放的な建築。正面には銅板葺・妻入切妻造の屋根も設けられています。

 

拝殿後方の空間は立入ができないので遠くから眺めることしかできませんが、拝殿の後方に中門と瑞垣で仕切が設けられ、その奥に二棟の本殿が建っています。

本殿は二棟ともに檜皮葺の一間社春日造。彩色の施された美しい建築です。

西殿(左側)の本殿には「神皇産霊神」「登美饒速日命」「天児屋命」を、東殿(右側)の本殿には「高皇産霊神」「誉田別命」を祀っています。

本殿の左側(西側)に二棟、右側(東側)に三棟の境内社が建っていますが残念ながらよく見えません。

 

当社の社前を流れる富雄川。この富雄川の流域一帯を古く「トミ」と称したようです。

 

当社の鎮座する丘の遠景。一説にはニギハヤヒが降臨した後に定住し、またニギハヤヒの墓のある「白庭山」であるとも言われています。

写真の丘の上に写ってい建設現場は奈良県総合医療センターで、現在は完成しており奈良県における重要な医療拠点となっているようです。

当地の旧地名である「木島(このしま)」とはこの丘が木の生い茂る島状の地形であることに因むのでしょうか?

 

タマヨリ姫
トミってところは神武天皇や物部氏のゆかりの地名みたいだけど、その候補は二つあるんだね!どっちのトミだったんだろ?
どちらも説得力があるけど、どちらもこれといった根拠は無いのが実情ね。謎のままにしておいた方がロマンは膨らむけどもね。
トヨタマ姫

 

由緒

石碑「式内 登彌神社」

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式内 登彌神社

奈良市石木町木島御鎮座 境内地 二町七反二十六坪

御祭神

東本殿 高皇産霊神、誉田別命
西本殿 神皇産霊神、登美饒速日命、天児屋命
攝社 大日命、豊受比賣神、天宇受女神、大山祇神、庭高津日神、大物主神、菅原道真公、猿田彦神、大己貴神、八重事代主神、瀬織津姫神、速秋津姫神、速佐須良姫神、気吹戸主神、表筒男神、中筒男神、底筒男神、併せて十七柱の神々を五社殿に合祀さる。

御由緒

皇紀四年、春二月二十三日、神武天皇が、この地に於いて、皇祖天神を祭祀されたのが、そも〱の淵源であり、その後、登美連が、祖先である天孫饒速日命の住居地-白庭山であった、この地に、命ご夫妻を奉祀したのが、当神社のご創建であります。

天皇陛下御即位五十年を記念して
昭和五十年乙卯十月八日 建立

案内板「登彌神社祭神饒速日命」

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登彌神社祭神饒速日命

通称木島明神といい、延喜式内小社で物部氏の祖神饒速日命を祭神とし、神域幽玄神殿もきわめて壮大であり太古大部族の祖神を祀るにふさわしいたたずまいである。

又、付近丘陵(大和郡山市城町主水山)は弥生時代遺物の散布地帯である。

 

地図

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