社号 | 添御縣坐神社 |
読み | そうのみあがたにます |
通称 | |
旧呼称 | 牛頭天王社 等 |
鎮座地 | 奈良県奈良市三碓3丁目 |
旧国郡 | 大和国添下郡三碓村 |
御祭神 | 建速須佐之男命、武乳速之命、櫛稲田姫之命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月第三土曜・日曜 |
添御縣坐神社の概要
奈良県奈良市三碓3丁目に鎮座する神社です。歌姫町に鎮座する「添御縣坐神社」と共に式内社「添御縣坐神社」の論社となっています。『延喜式』神名帳には大社に列せられ、古くは有力な神社だったようです。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。当社が式内社「添御縣坐神社」であるならば、かつて大和国にあった六ヶ所の朝廷の直轄地「倭の六県」(高市県、葛木県、十市県、志貴県、山辺県、曽布県)の一つ「曽布(添)県」の守護神として祀られたものと考えられます。
これら「倭の六県」は『延喜式』祝詞に見え、蔬菜類を栽培し献上するための農園のような地だったことがわかります。
『新撰姓氏録』には津速魂命の子、武乳遣命を出自とする「添県主」が登載されており、中臣系のこの氏族が式内社「添御縣坐神社」を奉斎したと考えられます。
当社の現在の御祭神は「建速須佐之男命」「武乳速之命」「櫛稲田姫之命」です。この内、建速須佐之男命と櫛稲田姫之命については、当社は近世以前に「牛頭天王社」と称し牛頭天王を祀っていたため、明治の神仏分離により仏教色の強い牛頭天王に代わって祀られるようになったものでしょう。
「武乳速之命」は添県主の祖である「武乳遣命」と同一と思われ、式内社「添御縣坐神社」は本来は専らこの神が祀られていたと考えられます。
一方で当社では武乳速之命とは神武東征以前から奈良盆地を支配しイワレヒコ(後の神武天皇)に抵抗した「長髄彦」のことであるとも伝えられています。
武乳速之命と長髄彦が結びついた経緯は不明ですが、イワレヒコに従うことを拒んだために殺された長髄彦を土地の人々が祀って慰めたとも言われ、明治以降に神武天皇を称揚する風潮の中で「朝敵」たる長髄彦を祀ることは堂々と言えなかったため「武乳速之命」に改称したとも言われています。
恐らく富雄川流域である当地は長髄彦の拠点であるとする伝承が古くからあって当社と結びついたのでしょう。
また、奈良時代には和珥氏の一族である小野氏が当地を支配したとも言われおり、小野福麿という人物が居住して三つの碓(唐臼)を使用したことで当地の地名「三碓」の由来となったと伝えられています。
『大和志』はじめ多くの江戸時代以前の資料では当社を式内社としている一方、『大和志料』では、添上郡と添下郡の境界の地であり、また「御県山」の字が存在することを理由に歌姫町の「添御縣坐神社」に比定しています。
歌姫町の「添御縣坐神社」が添上郡と添下郡を併せた「曽布」地域の中央にあたるのに対し、当地は添下郡の端になります。
さらに当社が式内社である根拠が薄いことに加え、この地に朝廷の直轄地が「曽布県」の名で置かれたのは不審であり本来なら「鳥見御県社」と称すべきだろう、と『大和志料』は指摘しています。
この指摘は尤もで、確かにこの地が「曽布県」だったと考えるのはやや難しいかもしれません。
一方で「曽布」の端、中央からやや離れた地だからこそ皇軍に抵抗した長髄彦を土地の英雄として語り継ぎ、守護神として崇める土壌があったのかもしれません。
当社の本殿は永徳三年(1383年)に建立された極めて貴重な建築で国指定重要文化財となっています。
境内の様子
境内の西方300mほど、近鉄富雄駅から南下した県道7号沿いに当社の鳥居が西向きに建っています。
鳥居をくぐり道を進むと左側(北側)のちょっとした丘に石段が見え、ここが境内入口となります。
石段を上った様子。広い空間となっており、石段が南北方向に伸びているのに対し社殿は西向きに並んでいます。
石段を上って左側(西側)に手水鉢が配置されています。
石段からまっすぐ進むと左側(西側)に桟瓦葺・妻入切妻造の舞殿が建っています。
拝殿のすぐ手前側に位置しており、京都府に多い舞殿風拝殿の影響を受けているかもしれません。
単独の舞殿は奈良県下ではやや珍しいものです。
舞殿の向かい、石段から進んで右側(東側)に拝殿が建っています。
拝殿は本瓦葺・平入切妻造の割拝殿で、通路部分は段違い屋根となっています。
拝殿前の狛犬。砂岩製でやや古めかしいものです。
拝殿後方に鳥居が建ち、その奥に本殿が覆屋に納められて建っています。
この本殿は檜皮葺で、形式上は五間社流造ですが、実際は一間社流造を三棟横並びにして繋げたもので、各宇の上に千鳥破風が付いています。
ベンガラなどの彩色の施された非常に優美な建築。永徳三年(1383年)に建立された古いものであることに加え、覆屋に納められていたため状態も非常に良好な極めて貴重な建築で、国指定重要文化財となっています。
本殿のすぐ左側の玉垣内に「子授石」なる二つの石があります。詳細不明ですが子宝の霊験があるのでしょう。
本社本殿の左側(北側)、石段を上ったところに「福神宮」が西向きに鎮座。御祭神は「小野福麿公」。奈良時代に当地に居住したと伝えられ、後述の当地の地名「三碓」の由来にも関わった人物です。
社殿は銅板葺の流見世棚造で覆屋に納められています。
福神宮の左奥(北西側)に「九の明神」が南向きに鎮座。小野福麿に忠義を尽くして殉じた九人の従者が祀られていると言われています。
小さな檜皮葺の一間社流造が覆屋に納められています。
道を戻り、舞殿の左側(南側)に「戦没英霊殿」が東向きに鎮座。
社殿は銅板葺の一間社流造で覆屋に納められています。
戦没英霊殿の左側(南側)に「恵比須神社」が東向きに鎮座。
社殿は檜皮葺の一間社春日造で覆屋に納められています。覆屋も妻入の切妻造の前面に庇の付いたもので春日造を模したものとなっています。
本社社殿の右側(南側)に遥拝所(恐らく伊勢神宮の遥拝所)があり、そのさらに右側に境内の東方へ伸びる道があります。
この道を進んでいくと左側(北側)の斜面沿いに「天香具山神社」が南向きに鎮座しています。
小さな銅板葺の流見世棚造で覆屋に納められています。
この道の突き当りに「龍王神社」が東向きに鎮座。祀られているのは背後にある池の龍神で、雨乞いの神とされており、本社の例祭で供えられた鯉をこの池に放つ習わしがあります。
社殿は小さな銅板葺の一間社流造で覆屋に納められています。
根聖院
当社の西側の崖下に隣接して真言律宗の寺院「根聖院」があります。かつての添御県坐神社の神宮寺で、薬師如来を本尊としています。
根聖院の境内に当地の地名「三碓(みつがらす)」の由来となった石があります。これは唐臼(シーソー状の杵を足で踏んで搗く道具)で、伝承では奈良時代に当地に居住した小野福麿という人物がこの地に「三ツ碓(からうす)」を置いて米を撞かせ、鳥狩りに訪れた聖武天皇がこれを見て「三碓」の地名を名付けたと言われています。
置かれている石から「三ツ碓」とは三つの窪みの設けられた臼のことなのでしょう。
ただ唐臼は平安時代以降に文献に見え始めるものの、奈良時代に本邦にあったかは不明です。一般的に普及したのも江戸時代以降とされています。
なお、大阪府岸和田市中井町の「夜疑神社」や京都府宇治市五ケ庄古川の「許波多神社」のようにかつて各地で唐臼の使用を忌む風習があり、これが意味するところは全く不明ですが、人々にとって唐臼が民俗上ただならぬものであったことが想像されます。
当地の地名も唐臼に特別なものを感じて付けられたのでしょう。
案内板
三碓地名の由来
境内の様子
案内板
添御県坐神社の概要
地図
関係する寺社等
添御県坐神社 (奈良県奈良市歌姫町)
社号 添御縣坐神社 読み そうのみあがたにいます 通称 旧呼称 牛頭天王社、八王子社 等 鎮座地 奈良県奈良市歌姫町 旧国郡 大和国添下郡歌姫村 御祭神 建速須佐之男命、櫛稲田姫命、武乳速命 社格 式 ...
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