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山口神社 (奈良県桜井市高田)

社号山口神社
読みやまぐち
通称
旧呼称
鎮座地奈良県桜井市高田
旧国郡大和国十市郡高田村
御祭神大山祇神?
社格式内論社
例祭

 

山口神社の概要

奈良県桜井市高田に鎮座する神社です。谷地区に鎮座する「石寸山口神社」と共に式内社「石村山口神社」の論社となっています。

式内社「石村山口神社」は『延喜式』神名帳に大社に列せられ、古くは有力な神社だったようです。

 

『延喜式』神名帳の大和国・山城国には「○○山口(坐)神社」と称する神社が15社記載されており、その中の一つが当社です。

当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、他の「○○山口(坐)神社」と同様、水源となる山間の地に山の神を祀り国家的に管理・祭祀したものと考えられます。

「○○山口(坐)神社」は全て『延喜式』臨時祭の祈雨神祭八十五座に加えられており、このことからも「○○山口(坐)神社」が水を司る神として朝廷から重視されたことが窺えます。

『延喜式』祝詞の祈年祭に飛鳥、石村、忍坂、長谷、畝火、耳無の各山口神社はその山の木材を伐り出し宮殿とした旨が記されており、「○○山口(坐)神社」は用材の産地として樹木を守護する神でもあったことが考えられます。

式内社「石村山口神社」についてはかつてイハレと呼ばれた桜井市中部~橿原市東部付近の山を水源の地、また用材の産地としてその守護神たる山の神を祀ったものでしょう。

天平二年(730年)の『大倭国正税帳』にも記載があり、「石村山口 神戸稲801束 租10田場云々」と記されています。

 

室町時代中期の文書『和州五郡神社神名帳大略註解』(通称『五郡神社記』)によれば、式内社「石村山口神社」について次のように記しています。

  • 当時は「石寸水分神社」と称する。
  • 池上郷石寸山裂谷にあり、石寸川の上である。
  • 筆者が考案するに、石寸山口座神は水分御子守神で、「大和国八部水分社」の内である。
  • また案ずるに、『大和国山川名所記』に曰く石寸山はまた石村といい、ここに至ってこれを見たところ、石寸山は多武峰西に並び今中香山の南東にある。
  • 斉明天皇紀に載るところの、天皇が水工に渠を穿ち香山の西より石上(イハカミ)山に通したとあるのはこれである。この石上山は山辺郡石上(イソノカミ)山と同字異訓である。
  • また案ずるに、石寸山の谷水川は倉橋山(多武峰より続く西山)の流水川と落ち合い、城下郡を通って大和川へ流入する。件の大川(二水の合流するものを言い、つまり寺川である)を名付けて石寸川、また八釣川、或いはまた多武峰川という。

これによれば寺川(米川との説もある)をかつて石寸川と言い、この上流に式内社「石村山口神社」が鎮座し、また多武峰の西に石寸山があったとしていますが、いずれもその具体的な場所ははっきりしません。

当時は「石寸水分神社」と称したことから石寸川の水流と関わりが深く、水源の守護神、山からの水流を分配する神としての神格がより強まっていたことも窺えます。

一方、「斉明天皇紀に載るところの」云々については『日本書紀』斉明天皇二年の条にあたりますが、ここに言う「石上山」はやはり山辺郡(現・天理市)の石上と見るべきで、「石村山口神社」「イハレ」とは特に関係無いものと思われます。

 

これに対して江戸時代中期の地誌『大和志』は式内社「石村山口神社」を谷地区の「石寸山口神社」に比定しています。

しかし『五郡神社記』の記述に合致しないなど疑問も多く、当社に比定する説もあります。当社に比定する説の初見は管見では見つけられておらず、恐らく比較的新しい説と思われます。

式内社を当社に比定した根拠ははっきりしませんが、或いは古くから「山口神社」と呼ばれていたのかもしれません。

加えて当地もまたイハレの範囲内と考えられ、当地の山塊がイハレ山だった可能性も十分考えられます。

しかし当社もまた米川・寺川いずれの上流とも言い難く、やはり『五郡神社記』の記述と合致しないなど、当社の比定にもやや疑問があります。

とはいえそもそも『五郡神社記』の記述からしても、石寸山は寺川の上流かつ多武峰の西にあるとするなど地形的にかなり無理のあるものとなっており、誤りを含んでいる可能性があります。

『五郡神社記』の比定が正確であるとも限らず、論社二社もいずれもそれなりの説得力があるため、式内社「石村山口神社」の比定は困難を極めていると言わざるを得ません。

 

なお現在の当社は若干の灯籠や手水鉢、石積みなどがあるのみで、全く神社としての体裁を為しておらず、明治以降は神社として取り扱われていないようです。

かつてここで行われていた行事「亥の子祭り」も現在は別の場所で行われており、かなり寂れたところとなってしまっています。

 

境内の様子

当社は高田地区の集落の南方、竹藪を抜けていった丘の上に鎮座しています。

 

この竹藪の道を進んでいくと、当社の境内(?)にさしかかった辺りに鳥居が見えます。

この鳥居の奥に「金毘羅大権現」と刻まれた石碑が建っており、動線を考えても当社の鳥居というよりはこの石碑の鳥居と見るべきでしょう。

 

鳥居の向かい側には若干の石段があり、その先は平らな空間となっています。

現在の当社は社殿等が全く無く神社としての体裁を為していませんが、かつては恐らくここが主要な社地だったのでしょう。

なお当地は土壇や破壊された礎石、奈良時代の瓦などの古代寺院の遺構が見られ、「高田廃寺」と呼ばれています。

『続日本紀』天平宝字七年(763年)十月二十八日の条などに見える「高田寺」はここであると推定されています。

案内板

高田廃寺

 

石段を上ったところの左側には手水鉢が配置されており、ここがかつてはそれなりに整備された神社だったことを物語っています。

 

石段上の空間の最奥部に二基の鳥居が建ち、その間には小さな石が多数積まれています。

かつてはここに本殿が建っていたのでしょうか。

 

石段上から「金毘羅大権現」の石碑と鳥居を見た様子。

かつて当地で行われていた「亥の子祭り」も現在は別の場所で行われているといい、いつ忘れられてもおかしくないような物寂しいところとなっています。

 

タマ姫
神社の建物とか全然無いけどここも神社なの??
社殿がなくなったのか、明治以降は神社としては扱われていないみたいね。
トヨ姫

 

由緒

案内板「亥の子祭り」

 

地図

奈良県桜井市高田

 

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