社号 | 下部神社 |
読み | しもべ / おりべ |
通称 | |
旧呼称 | 春日神社 / 下宮(旧地) 等 |
鎮座地 | 奈良県奈良市都祁吐山町 |
旧国郡 | 大和国山辺郡吐山村 |
御祭神 | 彦八井耳命 / 合祀:天之児屋根命 |
社格 | 式内社、旧県社 |
例祭 | 11月23日 |
式内社
下部神社の概要
奈良県奈良市都祁吐山町に鎮座する式内社です。
現在の当社は元々は「春日神社」の地で、対する「下部神社」は元々は現在地の南東850mほどの地に鎮座し「下宮」と称していました。
以下、当記事では現・下部神社(かつての春日神社)と旧・下部神社(かつての下宮)を区別するため、後者を「下宮」表記で統一します。
下宮(旧・下部神社)
「下宮」は上述のようにかつて現在地の南東850mほどの地に鎮座し、現在もその地には鳥居と石碑が建っています。
式内社「下部神社」は「シモベ」と読みますが、「下宮」の地の小字を「オリエ」と称し、かつては「オリベ」と読まれていたことを示唆しています。
当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、当地に居住した星川氏が都祁国造氏の祖を祀った、とする説明が一般になされています。
『新撰姓氏録』大和国皇別に石川朝臣同祖、武内宿禰の後裔であるという「星川朝臣」が登載されており、当社を奉斎したという「星川氏」とはこの氏族であると思われます。
この星川氏について『古事記』孝元天皇の段では武内宿禰の子の内、波多八代宿禰を祖とする氏族の一つとして記されています。
また『新撰姓氏録』には敏達天皇の御代に居住地により星川臣の姓を賜ったとあり、これは『倭名類聚抄』に記される大和国山辺郡の「星川郷」を指すものと考えられます。
一説に当地が「星川郷」である(『大和志』など)ともされていますが、もしそうならばすぐ北方が都介郷になり、他の三方はすぐそこが郡境になるため、山間の地でありながらも極めて狭い範囲になると想定されるため不自然です。
さらにこの星川氏が都祁国造氏の祖を祀ったとするのも不審です。都祁(闘鶏)国造氏は多氏と同系で「神八井耳命」を祖とする氏族であり、星川氏とは全く別系統の氏族です。
もし星川氏が当社を奉斎したのであれば「武内宿禰」もしくは「波多八代」を御祭神とするのが自然でしょう。
このように釈然としない点が多々ありますが、伝承や記録に乏しいため考察も困難で、基本的には由緒不詳と言わざるを得ません。
なお当社背後の裏山には岩石群があって地元の人々は「イワグロ」と呼んでいるといい、これを磐座として祭祀したのが当社の原初の信仰だったとも考えられるかもしれません。
春日神社および現・下部神社
上述のように現在の「下部神社」は元々は「春日神社」で、この地の小字は「クサオ」と称します。
当地は中世以降は興福寺の塔頭である唐院の荘園となったようですが、春日神の勧請は弘治二年(1556年)に吐山日向守光政によるものと伝えられ、比較的遅い年代の創建とされています。
明治四十年(1907年)に神社合祀政策により「下宮」が「春日神社」に遷座しましたが、その際に「下宮」が式内社「下部神社」であり由緒あることから、「春日神社」は「下部神社」と改称し、「下宮」の神を主祭神とし「春日神社」の神はそこに合祀される形となりました。
鎮座地こそ「春日神社」の地ですが、「下宮」を主とする形になっています。このような形にした理由は不明ですが、邪推するならば「春日神社」は吐山の集落に近く、古い「下宮」が忘れられつつあったのに対し新しい「春日神社」が吐山地区の氏神として機能していたことによるのかもしれません。
ただ、現在の当社の御祭神はどういうわけか「彦八井耳命」となっています。先述のように都祁(闘鶏)国造氏の祖は「神八井耳命」であり、彦八井耳命の兄にあたる人物です。恐らく何らかの誤解や誤記があったものと思われます。
このようにやや複雑な経緯がありますが、現在は当社が名実ともに吐山地区における氏神として信仰の中心となっているようです。
境内の様子
当社は国道369号の吐山交差点のすぐ近く、都祁吐山町の中心的な地に鎮座しています。
額井岳の北麓に位置し、境内入口には北向きの鳥居が建っています。
鳥居手前の右側(西側)に手水舎が建っています。
これとは別に鳥居の左側(東側)にも手水鉢が配置されています。
この左側の手水鉢の側に「祓戸社」が北向きに鎮座。社殿は鉄板葺の春日見世棚造。
奈良県の主要な神社では本社参拝前にまず祓戸社に参拝し穢れを祓い身を清める風習が見られるので、当社でもそうなのでしょう。
鳥居をくぐって正面奥に社殿が北向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺の平入入母屋造りに唐破風の庇の付いたもの。
拝殿には「春日神社」「下部神社」とそれぞれ右書きで揮毫された扁額が掲げられています。
拝殿前に配置されている狛犬。
拝殿後方、石垣上に玉垣に囲まれて銅板葺・一間社流造の本殿が建っています。本殿は赤などの彩色の施されたもの。
また本殿の手前右側(西側)に二社の境内社が東向きに鎮座しているのが見えます。社名・祭神は不明。
境内の西側には大型の社務所が建っています。
恐らく神事の際にも詰所として用いられるのでしょう。
当社へは二度訪れています。最初に訪れたときは秋で、境内の大きなイチョウが美しく染まり、落葉が境内の地面を黄色に染め上げていました。
ただ当社は北向きなので、日の短く低い秋季は神社と組み合わせて撮るのは困難でしょう。
当社境内からは鳥居の向こうに「都介野岳」が見えます。
美しい三角錐の山で「都祁富士」とも呼ばれ、都祁地域の象徴的な山となっています。
旧地(下宮)
現在の「下部神社」から南東850mほど、「はやまの森野営場」の入口あたりに「下部神社」の旧地があります。
暗くてわかりにくい写真ですが、杉の建ち並ぶ中に鳥居が北西向きに建っています。
鳥居をくぐった奥にある石段を上ると「式内 下部神社址」と刻まれた石碑が建っています。ここに社殿が建っていたのでしょう。
この背後に「イワグロ」と呼ばれる岩石群があるようですが詳細不明。
この旧地へ行く途中の道には「下部社」と刻まれた灯籠が建っています。
地図
旧地