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丹生川上神社上社 (奈良県吉野郡川上村迫)

社号 丹生川上神社上社
読み にうかわかみ かみしゃ
通称
旧呼称 高龗神社 等
鎮座地 奈良県吉野郡川上村迫
旧国郡 大和国吉野郡迫村
御祭神 高龗神
社格 式内社、二十二社、旧官幣大社
例祭 10月8日

 

丹生川上神社上社の概要

奈良県吉野郡川上村迫に鎮座する神社で、式内社「丹生川上神社」の三社ある論社の一つです。

論社は当社の他に東吉野村小に鎮座する「丹生川上神社中社」、下市町長谷に鎮座する「丹生川上神社下社」があり、これら三社が論社となっているのは後述のように複雑な経緯があります。

 

式内社「丹生川上神社」は『延喜式』神名帳に名神大社に列した他、二十二社の下八社の一社にも加えられ、古くは非常に有力な神社でした。

文明元年(1469年)に吉田兼倶が著したとされる二十二社について記した『二十二社註式』という文書に丹生社(丹生川上神社)についても記されており、それによれば概ね次の通りとなっています。

  • 雨師社と号していた。
  • 水神である罔象女神を祀り、これは伊弉諾尊の化身である。或いは闇龗神であるともいう。
  • 天武天皇の御代、白鳳四年(675年)の創建である。
  • 大和神社」の別宮である。
  • 人声の聞こえないような山深い地にあり、雨を降らす・止める神である。

かつて丹生川上神社は京都府京都市左京区鞍馬貴船町に鎮座する「貴船神社」と共に朝廷から降雨を司る神として極めて厚い崇敬を受けており、『延喜式』祈雨神祭八十五座の中に含まれ、殊に丹生川上神社と貴船神社については黒毛馬一匹を奉納すること、また雨の止まない時は白毛の馬を用いることが記されています。

また丹生川上神社の奉幣は大和神社の神主が使いに従って奉ることも記されており、やはり天理市新泉町に鎮座する「大和神社」の別宮として同社の管理下にあったことが窺えます。

国史にも旱魃の際は祈雨のため丹生川上神社に黒馬を、霖雨の際は止雨のため白馬を奉ったことが幾度も見えており、その数は50回以上とも100回弱とも言われています。

黒馬は雨をもたらす黒雲を、白馬は晴れをもたらす白雲、或いは晴天を象徴するものであり、これらを神前に奉納するのは一種の類感呪術であると言えます。

このように朝廷から特に祈雨・止雨に関して極めて厚い崇敬を受けていましたが、中世以降に朝廷による奉幣や黒馬・白馬の奉納が途絶えると次第に衰微し、いつしか所在すらわからなくなってしまいました。

 

丹生川上神社の所在を示す資料として、寛平七年(895年)の太政官符(『類聚三代格』に所載)に「四至 東限塩匂 南限大山峰 西限板波瀧 北限猪鼻瀧」とあります。

つまり丹生川上神社は東に「塩匂」、南に「大山峰」、西に「板波瀧」、北に「猪鼻瀧」のある地に鎮座していたことがわかります。ただし、これらがどこを指していたのかは難しく、多くの学者が比定地を挙げていますが定説はありません。

江戸時代前期に式内社「丹生川上神社」は現在の丹生川上神社下社にあたる長谷村の「丹生社」であると比定され、『大和志』など江戸時代中期の地誌は概ねこの見解を踏襲しています。

明治維新の後、明治四年(1871年)にこれまでの見解を踏襲して現・下社が式内社「丹生川上神社」であると決定されましたが、その後に同社(現・下社)の少宮司である江藤正澄が上述の太政官符の「四至」に適合していないことを問題視し、当時高龗神社と呼ばれていた当社こそがかの四至に適合するとして比定しました。

この江藤正澄の説は認められて、明治二十九年(1896年)には当時丹生川上神社とされていた長谷の神社を「下社」、迫の当社を「上社」とし、両社を併せて「丹生川上神社」とする決定がなされました。

しかし大正四年(1915年)にはさらなる展開となります。森口奈良吉という人物が小(おむら)に鎮座する当時蟻通神社と呼ばれていた神社(現・中社)こそが式内社「丹生川上神社」であると主張しました。

実地調査の結果、大正十一年(1922年)に森口奈良吉の説が認められて蟻通神社は丹生川上神社と改称、上下二社に対してこの神社を「中社」として、三社併せて「丹生川上神社」とし、この中社は社務所が置かれるなど三社の中心と位置付けられました。

戦後、三社は独立して別々の神社となりましたが、現在も「上社」「中社」「下社」と呼ばれており、近年も三社を巡るキャンペーンが行われるなど緩い繋がりがあるようです。

このような複雑な経緯によって現在は三社の「丹生川上神社」が併存しており、いずれが式内社だったのか、それともこれらとは別の地に鎮座していたのか、未だ定説はありません。

 

中社下社についての詳細はそれぞれの記事をご覧いただくこととし、ここでは当社(上社)について若干掘り下げます。

当社は元々は現在地の東方の河岸段丘上に鎮座していましたが、大滝ダムの建設によりダム湖となることから平成十年(1998年)に丘の上の現在地に遷座しました。

遷座の際に発掘調査が行われ、旧地付近からは縄文時代の集落遺跡である「宮の平遺跡」が、さらに旧本殿跡からは平安時代の社殿跡とされる石組が発見されています。

宮の平遺跡と当社の信仰には直接の関わりは無いにしても、かなり古くから人々が居住していたことがわかります。

また高龗神社と呼ばれていた頃の当社は小さな神社だったと言われていますが、平安時代に遡る遺構から古くからの神社であることが確認され、当社が式内社であったことの論拠の一つとも言えるものとなっています。

当社が式内社「丹生川上神社」に決定された後、大正六年に新たに社殿が造営されたものの、ダム建設に伴う遷座の際にその社殿は現在は明日香村飛鳥に鎮座する「飛鳥坐神社」に移築され、当社は新しい社殿が造営されました。

旧社殿は吉野川を背に(西向きに?)社殿が建てられていたようですが、現在は東向きに建てられ、ダム湖を見下ろすようにして鎮座しています。

 

このダム湖は公募により「おおたき龍神湖」と名付けられており、恐らく当社が龍神たる高龗神を祀ることに因んでいるのでしょう。

大滝ダムは長く根強い反対運動の末に建設されたダムであり、住民に大きな禍根を産んだ多難な事業でした。ダムが完成した現在では当社は当地の主要な観光地となっており、また当社はダム湖の守護神的な神格のようにも感じられます。

その一方でダム建設により故郷を失った人々のことを思えば、彼らの心の拠所でもあってほしいと願うばかりです。

 

境内の様子

当社は川上村役場や道の駅「杉の湯川上」から丘の上へ続く道を登って行った先に鎮座しています。

ダム建設により遷座した地であり、崖を法面で固め、その上に複数の広場が設けられた立体的で複雑な境内となっています。

 

丹生川上神社上社

北側からの石段を上って行くと右側(西側)に真っ白な鳥居が東向きに建っています。

背後には石垣状の法面の上に段差のある升形状の参道が伸びており、多数の幟が立てられていることも相まってまるで城郭のような雰囲気を醸し出しています。

 

鳥居をくぐって石段を上り、左側(南側)へ曲がるとちょっとした広場があり、その奥の右側(西側)にまた石段があります。実に城郭らしい構成。

 

この奥側の石段下に手水舎が建っています。

 

そしてこの石段を上って左側(南側)にも手水舎があります。水神を祀る神社だけに手水に事欠かないといった印象。

 

丹生川上神社上社

 

丹生川上神社上社

石段上は非常に広い空間となっており、正面奥に真新しい社殿が東向きに並んでいます。

拝殿は銅板葺の平入入母屋造に唐破風付きの向拝、そして千鳥破風の付いたもの。

拝殿前の左右に配置されている馬の銅像は、かつて丹生川上神社に奉納された黒馬と白馬を表したものなのでしょう。

 

本殿は銅板葺の流造で、幣殿で拝殿と接続しており権現造のような形式となっています。

 

本社本殿の左側(南側)、石段上の空間に境内社がまとまって鎮座しています。

 

この石段を上ると三社の相殿が東向きに鎮座しています。祀られているのは左側から次の通り。

  • 愛宕神社」(御祭神「火武須比神」)
  • 恵比須社」(御祭神「大国主神」「事代主神」)
  • 水神社」(御祭神「弥津波能賣神」)

水神を祀る本社とは別に水神ミヅハノメを祀る「水神社」が鎮座しているのはやや不思議です。近隣からの遷座なのでしょうか。

社殿は銅板葺の三間社流造。

 

この三社相殿の手前側に配置されている狛犬は砂岩製で古めかしさが感じられます。

全体的に真新しい境内の中で、歴史を感じさせる数少ないものです。旧社地にあったものを持ってきたのでしょう。

 

そして同じく三社相殿の傍らに建つ灯籠は元禄十二年(1699年)の紀年銘があります。こちらも当社において江戸時代に遡る貴重な遺物です。

 

三社相殿の右側(北側)、本社本殿の左側(南側)に「山之神社」が東向きに鎮座。御祭神は「大山祇神」。

社殿は銅板葺の一間社春日造。

 

境内の北側の傍らに旧社地から発掘された平安時代の祭場跡の石組が復元されています。

しかし雑然と石が並べられているだけのようにも見え、素人目にはよくわかりません。意図的に石を持ってきて並べられていたことに意味があるのでしょうか。

 

当社境内からダム湖を見下ろした様子。丘の中腹に鎮座していることから周囲の様子がよく見渡せ、ここが山深いV字谷の地形にあることがよくわかります。

 

当社への道の途中からはダム湖がよく見えます。

ダムが建設される以前にはここにどのような集落があったのか、そして当社がどのように鎮座していたのか。今となっては想像するしかありません。

一方で新しく完成したこのダム湖を見守る位置に当社は立地しており、水神たる当社はこのダム湖の守護神としての神格も新たに加えられているようにも思われます。

平安時代から祭祀されつつも小さな神社だった当社が明治に至り式内社「丹生川上神社」とされて整備され、さらに後にはダム建設により遷座となり周囲の景色が一変しました。

この150年ほどの当社はまさに激動の歴史だったことでしょう。

 

タマヨリ姫
わー、何だかお城みたい!高台にあるから境内からは眺めも良いね!
ダム建設に伴ってここに遷ってきたのよ。旧地は平安時代からの祭祀場だったみたいだけど、今はダム湖の底となってるみたいね。
トヨタマ姫

 

御朱印

 

由緒

案内板「龍神総本宮 丹生川上神社上社」

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龍神総本宮 丹生川上神社上社

主祭神

高龗大神(龍神・雨師の神)

相殿神

大山祇神
大雷神

御由緒

「高龗大神」は神代において伊弉諾尊が火の神「迦具土神」を切り給うた時に生れませる神様で天空・山の峰の龍神のことです

日本書紀神武天皇即位前紀戊午甲子の条に「厳瓮を造作りて丹生の川上に陟りて用て天神地祇を祭りたまう」と記されており上古より祭祀を行う聖域であった事が知られます 天武天皇の御代白鳳四年(六七五)「人の声も聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬き祀らば天下のため甘雨を降らし霖雨を止めむ」の神宣により御社殿を建立奉祀されました それ以降祈雨・止雨の神として奈良時代には淳仁天皇天平宝字七年(七六二)の奉幣祈雨 光仁天皇宝亀六年(七七五)の奉幣祈晴をはじめ室町時代に至るまで数十回の奉幣祈願がなされ朝廷・国家また人々より篤い崇敬を受けてまいりました

「この里は丹生の川上 ほど近し祈らば晴れよ 五月雨の空」

後醍醐天皇が吉野の行宮に在られた折当社に寄せて詠まれた有名な御製です

平安時代の法令集「延喜式」(九二七)によると朝廷の奉幣をいただき旱魃の際の祈雨には黒毛の馬を長雨の際の止雨には白毛の馬を奉るのを例としました(なおこの生きた馬の代わりに絵馬を奉納するという風習が後に普及したといわれます)

また「延喜式」には名神大社という特に霊験あらたかな神社として月次・新嘗祭に際し官幣に預り 神階は寛平九年(八九七)従二位に叙せられ雨師社・雨師明神・丹生大明神とも称されました そして平安中期以降は朝廷における最高の社格となる「二十二社」の一つに数えられました

 

地図

奈良県吉野郡川上村迫

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