社号 | 菱妻神社 |
読み | ひしづま |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 京都府京都市南区久世築山町 |
旧国郡 | 山城国乙訓郡築山村 |
御祭神 | 天津彦火瓊瓊杵尊 |
社格 | 式内論社 |
例祭 | 5月第1・第2日曜日 |
式内社
菱妻神社の概要
京都府京都市南区久世築山町に鎮座する神社です。式内社「簀原神社」及び「乙訓坐大雷神社」の論社です。
当社の創建は詳らかでありませんが、社伝によれば式内社「簀原神社」を前身としており、簀原の地(詳細不明)に「火止津目大明神」として祀られていたようです。
案内板の記述は意味がややはっきりしませんが、十二世紀はじめに桂川の洪水により流失し、その跡地(当地か?)に簀原大明神を奉じて鎮座したとあります。また、火止津目大明神は洪水による流失の後に久我の地に再建されたともありますが、これは現在の久我石原町にある同名の「菱妻神社」のことでしょうか。ただしそちらではそのような伝承は伝えられていないようです。
さらに、どういうわけか十三世紀頃に社名を「乙訓坐火雷神社」に変更したと伝えられています。十世紀に成立した『延喜式』神名帳には既に「乙訓坐火雷神社」が記載されているわけですが、300年も経ってから当社が乙訓坐火雷神社を名乗ったのは何故なのでしょう。現在「乙訓坐火雷神社」の論社は「角宮神社」と向日神社に合祀されたものとがありますが、それとは別に乙訓坐火雷神社があって、その神社を合祀したことが考えられるかもしれません。
現在の社名になったのは十六世紀のことと伝えられています。
その他、案内板には祠は無いものの当社の境外社として「走田神社」「簀原神社」「茨田神社」があると書いています。いずれも式内社ですが、当社とは別に簀原神社があるのは由緒からしても不審です。「茨田神社」は現在も跡地があり大木に注連縄が掛けられている一方、他の二社は場所がはっきりしません。走田神社については長岡京市奥海印寺に「走田神社」が鎮座していますが、これとは別に神社があったようです。
このように伝承がはっきりせずイマイチ掴みどころのない神社ですが、桂川のすぐ側に鎮座しており、洪水による被害があった伝承は事実が含まれていそうです。現在の当社は工場に囲まれつつもその一端に鬱蒼とした森を残しており、どこか不思議な雰囲気が感じられます。
境内の様子
当社の一の鳥居は境内の北方200mほど、祥久橋の下に北向きに建っています。神社は南向きなのに参道が北側に伸びているのは珍しいことです。
一の鳥居から進んでいくと朱の施された二の鳥居が建っています。当然ながらこちらも北向きなので、天気が良いとこのようにド逆光になります。
参道の両側に工場や倉庫が並んでるのも当社の特徴で、戦後すぐの頃までは集落から離れた田圃の広がる閑散とした地でしたが、1970年代以降に工場が続々と建てられていったようです。
二の鳥居を南から見てみるとこのような感じ。工場に囲まれてるとはいえ、巨樹が並んでいることからまさしく参道であることが察せられます。築山の集落はこの先の北西方面にあるため参道が北側に伸びているのでしょう。
さらに参道を進んでいくと鬱蒼とした森に入っていきます。とはいえこの森も木々のすぐ向こうには工場が並んでおり、工業と自然・伝統が隣り合った不思議な空間となっています。
この森を左側にぐるっと回りこむと広い空間があり、そこに南向きの社殿が建っています。
社殿の左側(西側)には真新しい手水舎があります。
当社の拝殿は京都に多い妻入り入母屋造の舞殿風拝殿。装飾等の一切無い極めて簡素な建築です。
拝殿の後方、石段の上の空間に本殿が建っており、その前に塀と中門が建っています。塀の先へは立ち入ることができません。
本殿は覆屋の中に納められており、やや大型の一間社流造です。
本殿の左側(西側)には「稲荷神社」、「松尾神社」、「蛭子神社」が鎮座しています。
本殿の右側(東側)には「岩裂神社」、「加茂神社」、「春日神社」を祀っています。岩裂神社は岩石を祀っています。
当社の森を南方から見た様子。非常に鬱蒼としています。
当社のすぐ側に桂川が流れています。社伝では十二世紀に桂川の洪水によって流失したと伝えられており、地勢からしても頷けるものです。
由緒
案内板
菱妻神社
地図