社号 | 粟神社 |
読み | あわ |
通称 | |
旧呼称 | 粟明神、稲粟明神 等 |
鎮座地 | 京都府城陽市市辺大谷 |
旧国郡 | 山城国綴喜郡市辺村 |
御祭神 | 粟神? |
社格 | 式内社 |
例祭 | 4月8日 |
式内社
粟神社の概要
京都府城陽市市辺大谷に鎮座する式内社です。
社伝によれば、孝安天皇の御代、平間山の麓の百舌ヶ原(現在地不明)に少名彦名尊と高御産霊神が、一柱は椎の木に、一柱は榊の木に降臨し、乙足彦連という人物に「我を祀れ」と夢のお告げがあったので、探してみると椎の木の下に粟の穂が、榊の木の下には稲穂が生えていたので、そこに社殿を建てて祀ったと伝えられています。また、元は東方800mほど、青谷川の上流側の「松尾」というところに鎮座していたと伝えられています。
この社伝に基づけば当社の御祭神は少名彦名尊と高御産霊神となりますが、現在は御祭神は不明とする資料が多いです。一般に少彦名命と対になるのは大国主命ですが、そうでなく敢えて造化三神の一柱であり抽象的な神である高御産霊神が登場するのは気がかりな点です。
当社の祭祀氏族については粟田朝臣や粟直などが考えられますが、特に当地との関係性が見だせず、特定するのは困難です。粟を阿波と見なし、忌部氏が当地に居住したとも考えられなくもありませんが、それを証する資料もありません。
側に青谷川が流れており、この川の流れる谷を青谷と称したものと思われますが、青谷(あをたに)は粟谷(あはたに)が転訛したものであるものであるかもしれません。当社のすぐ東方に「粟谷」の地名があります。とすれば、この谷を開拓した人々が当社を奉斎したことが想定できそうです。
なお、市辺の集落はかつて当社の鎮座地付近にあったものの、青谷川の氾濫により下流側へ移転したと伝えられています。神社はこの地に残されていますが、今や集落から離れた森の中の小さな神社であり、半ば忘れられたような状態になっています。
境内の様子
境内入口。鳥居は北西向きに建っています。かつてはこの地に集落があったと言われていますが、現在は人里離れたところとなっており寂しさが漂っています。
入口の手前にかなり小さな手水鉢がちょこんと置かれています。
鳥居をくぐった様子。境内は鏡谷山から伸びる尾根に立地しており、鬱蒼とした森の中にあります。
参道を進んでいくと石段の上に西向きに社殿が並んでいます。
拝殿は瓦葺の平入入母屋造。扉が閉められているものの割拝殿です。
拝殿前の灯籠にはかつての呼称である「粟大明神」の銘が刻まれています。
小さな神社ですが、『延喜式』の頃から社名が変わっていないことが偲ばれます。
拝殿後方の本殿は塀に囲われて建っており、覆屋の中に収められていて見ることが出来ません。一間社流造のようです。
地図