社号 | 大歳神社 |
読み | おおとし |
通称 | |
旧呼称 | 山王権現 等 |
鎮座地 | 奈良県橿原市石川町 |
旧国郡 | 大和国高市郡石川村 |
御祭神 | 大歳神、大山咋命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月8日 |
大歳神社の概要
奈良県橿原市石川町に鎮座する式内社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
室町時代の文書『和州五郡神社神名帳大略注解』(通称『五郡神社記』)によれば、逝回郷田口村大野陸田畷に鎮座するとし、社家の説に曰くとして「保食神」と「大歳神」を祀るとしています。(なお『五郡神社記』には大歳神を保食神の子と記すが、記紀にはそのような記述は無い)
また『五郡神社記』は石河楯なる人物が社殿を造営して祭祀したかとも推測しています。
石河楯は『日本書紀』雄略天皇二年七月の条に登場し、この人物は旧記に石河股合首の祖とあること、百済から貢進された池津媛を犯したため天皇が大いに怒り、大伴室屋大連に命じて四肢を木に張りつけ火刑にされたとことが記されています。
国史には見えないものの、どういうわけかこの石河楯なる人物は甘橿丘を開墾したとする伝承があるようで、『五郡神社記』は式内社「治田神社」について甘橿丘の辺りにあったとした上で、この人物による創建であるとする旧記を引いています。
当社についてもその延長として石河楯による開墾が行われたものとする伝承があったのかもしれません。
ただ、上記の『五郡神社記』の記述は、「大歳神を祀る」「二座である」にも関わらずこれを式内社「大歳神社」でなく式内社「御歳神社」(現在は和田町の「馬立伊勢部田中神社」に比定)の記事となっており、手違いがある可能性があります。
江戸時代には式内社「大歳神社」の所在は不明となっており、江戸時代の地誌「大和志」も所在不明と記しています。
恐らく明治以降に式内社「大歳神社」が当社とされたと思われますが、その根拠・経緯は不明です。推測するなら、前述の『五郡神社記』の記述から当地の地名「石川」を石河楯に関連するものとし、そこに鎮座する神社を充てたのかもしれません。
当社は江戸時代以前は「山王権現」と称したようで、現在も御祭神として「大歳神」に加えて山王信仰の神である「大山咋命」を祀っています。
大山咋命は大歳神を父としており、父子の神を祀っていることになります。しかし大歳神は穀物神であるのに対し大山咋命は山の神であり、大きく神格が異なることから当初からの祭神であったかはやや疑問があります。
ただ一般に「田の神」は春になると里へ下りて穀物神・農耕神となり、秋になり収穫を終えると山へ帰ると信仰されており、この「田の神」の二つの側面を表したのが当社の御祭神であると解釈できなくもありません。
いずれにしても農作物の実りを司る農耕の守護神として祭祀されたのが式内社「大歳神社」だったことでしょう。
境内の様子
当社は石川町の東方、石川池(剣池)の北方にある小さな丘の上に鎮座しています。
入口は丘の西麓と南麓の二ヶ所があります。西麓の方に鳥居が建っているのでこちらが表参道でしょう。
上の写真は西麓の入口の様子。鬱蒼とした森の中を石段が伸びています。
石段を上っていくと鳥居が西向きに建っています。
鳥居の先で参道は右側(南側)へ折れ、再び石段が続きます。
この石段を上ると平らな空間となっており、この奥(東側)に社殿が西向きに建っています。
拝殿は桟瓦葺の平入入母屋造。
拝殿前の右側(南側)に手水鉢が配置されています。
拝殿後方の石垣上に本殿や境内社などが建っていますが、そこに設けられている塀はかなり変わったものとなっています。
塀の左右両側に二枚ずつ、計四枚の塀が突き出ており、三つの区画に分けられているのです。
まずは中央の区画から。こちらの区画はかなり広く取られ、その中央に中門が設けられ、奥に銅板葺の一間社流造の本殿が建っています。
本殿はベンガラらしき塗料で赤く塗られています。
中門前に配置されている狛犬。砂岩製です。
塀の左側(北側)の区画には境内社の「春日神社」が西向きに鎮座しています。社殿は銅板葺の春日見世棚造。
対する塀の右側(南側)の区画には木が植えられています。
当社の鎮座する丘を南東側から眺めた様子。
丘全体が木々で囲まれており鬱蒼としているのがわかります。
当社のすぐ南側に隣接して「石川池」もしくは「剣池」と呼ばれる池があります。
この池は極めて古く、『日本書紀』応神天皇十一年の条にこの池を作ったことが見え、この池の畔には孝元天皇陵もあります。『万葉集』にもこの池を詠んだ歌が見えます。
案内板
剣池
地図