社号 | 竹田神社 |
読み | たけだ |
通称 | |
旧呼称 | 三十八社 等 |
鎮座地 | 奈良県橿原市東竹田町 |
旧国郡 | 大和国十市郡東竹田村 |
御祭神 | 天火明命 or 天香久山命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月24日 |
式内社
竹田神社の概要
奈良県橿原市東竹田町に鎮座する式内社です。
当社の創建について、『新撰姓氏録』左京神別に火明命の子孫であるという「竹田川辺連」が登載されており、ここに次のような記事が記されています。
『新撰姓氏録』(大意)
仁徳天皇の御代、大和国十市郡の刑坂川の辺りに竹田神社がある。これを氏神とし、その地に住んでいる。緑竹が大きく美しかったので箸竹として献上したところ、これによって竹田川辺連の姓を賜った。
これがそのまま当社の由緒となっています。刑坂(オシサカ)川とは現在の当社のすぐ北東を流れている寺川にあたります。
故に当社はこの「竹田川辺氏」が奉斎した神社となります。一方、『新撰姓氏録』には他にも同族として同じく左京神別に火明命の五世孫、建刀米命の後裔である「湯母竹田連」を登載しており、ここには次のような記事が記されています。
『新撰姓氏録』(大意)
子は竹田折命である。景行天皇の御代、田を賜い田植えをしようとしたところ、夜の間にその田に菌(タケ / =きのこ)が生えた。天皇はこれを聞き菌田連の姓を賜った。後に改めて湯母竹田連とした。
これによれば「竹田」とは本来は「菌田」の意だったようです。竹田と改姓したのは上記「竹田川辺連」の記事に見える故事によるものなのでしょう。
一方「湯母」とは皇子の養育にあたる職掌であると考えられ、湯母竹田氏がこうした職掌に従事したことが窺えます。
これに対する竹田川辺氏はいかなる職掌に従事したかは不明ながら、竹の箸を献上したことから宮廷の調理や配膳を司る膳夫(かしわで)であったことが推測されます。
この両氏は火明命を祖とする尾張系氏族であり、多くの尾張系氏族が宮廷の調理や皇子の養育などを職掌としていることから恐らく両氏もこれを踏襲したのでしょう。
また当社は田原本町多に鎮座する「多坐彌志理都比古神社」の禰宜が久安五年(1149年)に提出した『多神宮注進状』にも言及があり、同社の若宮であること、御祭神は「天孫国照火明命」であり竹箸を神像としていることが記されています。
現在はどうであるかは不明ながら、平安末期には竹箸を神像としていたといい、まさに『新撰姓氏録』の記事に基づき竹箸を依代としてのみならず一族の象徴として神聖視したものでしょう。
その一方で当社が「多坐彌志理都比古神社」の若宮だったとのはどのような事情があったのか不明です。
竹田川辺氏・湯母竹田連は「多坐彌志理都比古神社」を奉斎した多氏と系統が全く異なっており、接点は無いに等しいとすら言えます。
しかし『多神宮注進状』には竹田川辺氏からも神官が出ており、「多坐彌志理都比古神社」と浅からぬ関係だったことが窺えます。
「多坐彌志理都比古神社」は当地付近においては群を抜いて有力な神社なので、或いは地理的な近さ故に取り込まれたのかもしれません。
また大同三年(808年)に成立した医学書『大同類聚方』には当社に伝わる薬として「川乃反(カハノヘ)薬」「太計太(タケタ)薬」「楚武川(ソムカワ)薬」という三種類もの薬が登載されています。
複数もの薬が伝わる神社は異例で、或いは当社を奉斎した竹田川辺氏は医学にも精通していたのかもしれません。
当社は江戸時代には「三十八社」と称していました。当時どのような神が祀られていたかは不明で、当初の祭神は忘れ去られていたようです。
現在の当社の御祭神は「天火明命」とする資料と「天香語山命」とする資料があります。両神は父子関係にあたり、いずれも当社を奉斎した竹田川辺氏の祖であるためいずれであってもおかしくはないでしょう。
境内の様子
東竹田町は寺川を挟んで右岸側と左岸側に集落が分かれており、当社は左岸側の集落の北西側に鎮座しています。
境内は玉垣に囲われており、南東の入口に鳥居が東向きに建っています。
鳥居の左側(北側)に手水舎があります。手水鉢は盃状穴のあるそこそこ古そうな花崗岩製のものですが、吐水は龍頭型の新しいもの。
鳥居から見て右奥(北西側)に社殿が東向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺の平入切妻造。
拝殿後方は塀に囲まれて銅板葺・一間社春日造の朱塗りの本殿が建っています。
また本殿の右側(北側)に境内社の「厳島神社」が鎮座。こちらの社殿は本社本殿より小さく簡素な銅板葺の一間社春日造。千木も内削ぎとなっています。
本社拝殿の手前右側(北側)に「大日堂」が南向きに建っています。これはかつての当社の神宮寺といい、現在も境内を共有しています。
宗派は不明ながら、大日如来を本尊とすることから恐らく真言宗でしょう。
この建物は本瓦葺の宝形造に裳階が付き、正面に向拝の付いたもの。
本社社殿と大日堂の位置関係はこのような感じ。かなり近接しており、一体的な信仰空間となっています。
この例のように神社と寺院が境内を共有し、かつ両者の向きが直交している場合、当サイトでは「直交型」の配置と分類しています。
大日堂の左側(西側)に「青面金剛」と刻まれた石碑が東向きに建っています。
青面金剛とはつまり庚申信仰の本尊です。奈良県では「庚申」と刻まれた石碑が建つことが通例なのでやや珍しい例です。
大日堂の右側(東側)には宝篋印塔と役行者像の納められたお堂が南向きに建っています。
さらに右側(東側)、境内の北東端に「金毘羅大権現」と刻まれた石碑が西向きに建っています。
一方、本社社殿の左側(南側)に「南無妙法蓮華経」「妙見宮」などと刻まれた日蓮系の石碑が東向きに建っています。
大日堂とは別の宗派のものと言え、そう大きくない境内に様々な信仰が綯い交ぜになっている様子が窺えます。
当社の境内の東側には万葉歌碑が建っています。
『万葉集』巻四-760の大伴坂上郎女の詠んだ歌「うち渡す 竹田の原に 鳴く鶴の 間なく時無し わが戀ふらくは」が刻まれています。
石碑
地図